死の接吻
――スウェーデンの殺人鬼――
南部修太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)死體收容室《モルグ》で
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その間に|夜の飾衣《ナイト・ガウン》を着た
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(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
/″\:濁点付きの二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ずる/″\と滑り落ちて
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猫の唸聲
「ふウん、臺所に電氣がついてる‥‥」
凍りついた雪の道に思はず足を止めて、若い農夫のカアルソンは宵闇の中に黒く浮んでゐる二階建の別荘の方へおびえたやうな視線を投げた。
千九百三十二年三月四日、ちやうど金曜の晩のこと、ストツクホルムから程近いモルトナス島のゼッテルベルグ老人の別荘へ昨日から度々電話を掛けてみるのだが一向に返答がない、日頃からごく懇意にしてゐる老人のことなのでひどく氣に掛かつて、その日の仕事をやつと片附けると、カアルソンは自分の農場から一マイルほどの道を大急ぎで駈けつけて來たのだつた。
別荘は玄關にも裏口にも固く錠が降りてゐた。そして、扉を叩いてみても、中はしいんと鎭まり返つてゐた。
「今晩は、今晩は‥‥」
さすがに胸騷ぎを感じながら、カアルソンは二三度大聲に呼んでみた。が、答へるのは自分の聲の木魂ばかり‥‥。
カアルソンは何とはなしにぞつとした。老人夫婦がこんな宵の内に家を締めるなどは今までにないことだ。それに、かちかちに凍りついた物干綱にさがつてゐるあの洗濯物! それは一昨日訪ねて來た時とそつくりそのままではないか?
「こいつアただ事ぢやないぞ。」
さう呟くと、カアルソンはもう夢中で駈け出した。そして、老人が毎日牛乳を買ひに行く、すぐ近所の農夫仲間ロフベルグの家の門口をやけに叩いた。
「己アたつた今ゼツテルベルグさんのところを訪ねて來たんだが‥‥」
と、カアルソンは息を切らしながら、
「と、ところが、臺所にやアちやんと電氣がついてるのに、うんともすんとも返答がないんだよ。」
「ヘエ、そりや妙だな。」
と、ロフベルグも怪訝らしい顏附で、
「實ア己も何か變つたことがあるんぢやないかと思つてたとこさ。と言ふのは、一昨日ちやアんと牛乳を買ひに來なすつたあのお年寄が昨日も來なさらねエし、今日もまだなんだよ。何しろ奧さんの怪我はまだ治らねエ筈だから、家中でストックホルムへ行きなさる譯アなしね。」
「そ、さうだとも‥‥」
不安な樣子でカアルソンは相槌打つた。
ゼッテルベルグ老人はもと株式仲買人で、今は財産の利息で暮してゐる氣樂な體だつたが、その收入が幾分減つたので、寒くて不自由でも少し暮しを詰めようといふ譯で、今年の冬はストックホルムからわざわざ寒氣の嚴しい島の別莊へ移り込んだ。ところが、つい一月ほど前、夫婦でスケイト遊びの最中に細君は過つて薄氷の割れ目に落ち込み、幸ひ老人の手に救ひ上げられたが、その時足をひどく挫いたのだつた。
とにかく中を調べようといふ事になつて、間もなく二人の農夫はまた別莊の方へ歩いて行つた。と、臺所の窓には相變らずぽつと明りが差して、白い洗濯物が突風に吹かれて暗い夜空に搖れ動くのが如何にも薄氣味惡かつた。別莊は灰色の可成り大きな建物だが、階下はすつかり締めきつて、階上の四部屋だけが老人夫婦に使はれてゐるのだつた。
「さア、どうしたら中へはいれるかね?」
さうロフベルグが尋ねかけると、カアルソンは暫く首をひねつてゐたが、
「さうさう、たしか庭に梯子があつたよ。そいつであの臺所の窓からはいつたら?」
やがて梯子を掛けると、カアルソンはすぐそれを昇り出したが、忽ちぎよつとした樣子で足を止めた。別莊の中から恐怖の叫びに似たやうな凄まじい唸聲が不意に聞えて來たのだ。カアルソンは梯子を握り締めながら、
「な、何だらう、ありや‥‥」
と、聲顫はせて囁いた。
「猫だ、ゼッテルベルグさんの猫の聲だ。」
と、ロフベルグは落ち着いて答へながら、
「だけど、何か厭やなことでもないと、あアいふ凄い唸聲は立てねエもんだぞ。」
びくびくものでまた梯子を昇り出したが、やがて顏が一番低い窓硝子の所へくると、カアルソンはぼやつと明るい臺所の中を覗き込んだ。可成りな廣さ、弱い光は向ふ隅の料理竈の上にさがつたたつた一つの電球から來てゐる。暫くしてもう一段昇ると、窓硝子に顏をくつつけてぢつと中を眺めつづけてゐたが、突然ぎくりと動いた兩足が段をはづれたかと思ふと、カアルソンは手袋をはめた兩手で梯子の兩脇を掴んだままずる/″\と滑り落ちて地面へぐしやつと潰れたやうになつてしまつた。
「どうした? な、何が見えたんだ」
近寄りざまにロフベルグはカアルソンの肩を劇しく搖す振つた。
「た、大變だ。ゼッテルベルグさんが竈の脇の血溜りに倒れてる‥‥」
顏青ざめ、がたがた顫へながら、カアルソンは息詰まるやうな聲で叫んだ。
「そして、そして、料理臺の上にやア頭をぐしやぐしやに割られた女が突つ伏してる。ち、畜生つ、猫の野郎め、その脇に突つ立つて己をぢつと睨みつけやがつたよ。」
慘劇の現場
夜の十時、グスタフソン警視がストックホルム警察廳の自室で煙草をふかしてゐると、あわただしくはいつて來たのは主任警部のソオルで、いきなり呶鳴りつけるやうに、
「ただ今モルトナス島の派出所からえらい事件を報告して來ました。ゼッテルベルグと申す老人夫婦とその義理の妹にあたるヘドストロムといふ細君が殺害されたさうです。グスタフスブルグ署のジヨンソン署長とベルントソン醫師は現場の別莊へ急行したと言ひますが、わたしもこれからすぐ出掛けようと思ひます。」
首も埋まりさうな厚ぼつたい外套の釦をせかせかとはめながら、ソオルは言つた。
「宜しい。無論、僕も一緒に行かう。とにかく現在までに君が聞き込んだ委細のことを話してくれ給へ。」
落ち着いた樣子でさう言ふと、ソオルの話を聞きながらも一方上役のゼッテルクイスト刑事部長を電話口へ呼び出して、グスタフソンは事件の概略を報告しこれから現場へ出掛ける由を傳へた。
數分の後、ソオルとグスタフソンを乘せた警察自動車は現場へ疾走してゐた。
「さうだ。ゼッテルベルグといふ老人のことを今はつきり思ひ出したよ。」
と、グスタフソンは深々と座席に埋めた大きな體を重たさうに動かしながら、
「どうも聞き覺えのある名前だと思つて今まで頭をひねつてゐたんだが、そいつは金貸し兼仲買人のやがて七十になる爺さんだよ。夫婦とも相當工面のいい譯だが、をかしいのはこの冬何だつてあんな寒い島で暮してゐるかといふことさ。」
「なるほど。ですが、わたしにはまるで覺えのない人物ですな。」
二人が現場へ着いた頃は夜も可成り更けてゐたが、澤山の島人達が寒さにもめげずに別莊のまはりに集つて、今は電燈の光り輝く窓窓に好奇の眼を注いでゐた。ソオルが扉を叩くと、ジョンソン署長が迎へ出て來て、
「さア、どうぞ。いやはや、全くもう身の毛のよだつやうな有樣でございますて‥‥」
二人はすぐに階下の應接間へはいつて行つたが、寒々とした部屋ながらそこは家具一つ亂れてはゐなかつた。すべては階上での出來事で、更に署長の案内で階段を昇ると、ひどく天井の低い廊下へ導かれたが、そこの一隅の小卓の上には電話器が置いてあつて、その傍には銀貨が一つ光つてゐた。そして、天井と壁の所々には黒ずんだ血痕が幾つか縞を作つてゐた。
「こちらがその臺所で‥‥」
と、ジョンソンは奧の方へ進んで行つた。
無殘な修羅場だつた。フリツツ・ゼツテルベルグは毛布の帽子をかぶり毛皮の靴をはいたまま仰向きになつて血溜りの中に倒れてゐた。その兩手は恐ろしい運命に悲しく服從するかのやうに、掌を上に向けて體の兩側に投げ出されてゐた。また老人の義理の妹にあたるクリスチナ・ヘドストロムはうつ伏せになり、兩手をだらりと垂れたまま料理臺の上に横たはつてゐた。そして、その傍には一人の男が體をかがめて、打ち碎かれた顏の模樣をしきりに調べてゐた。
「醫師のベルントソン君です。」
ジョンソンはその男を二人に紹介した。
グスタフソン警視は會釋しながら、
「二人とも前頭部を割られとるやうだね。死後およそどのくらゐになるかな?」
「さやうですな‥‥」
と、醫師は立ち上り、姿を正しながら、
「死體收容室《モルグ》で十分研究しないと正確には申し上げられませんが、先づ水曜の夜か木曜の明方にやられたものと推定します。つまり死後三十六時間乃至四十八時間ぐらゐです。」
グスタフソンとソオル警部は狹い廊下を戻つて左に曲ると、臺所と隣り合つた寢室へはいつて行つた。と、片側に二つの寢臺が並んでゐて、その間に|夜の飾衣《ナイト・ガウン》を着たヒルマ・ゼッテルベルグの死體が横たはつてゐた。この老婆もやつぱり頭蓋骨を碎かれ、片足を左側の寢室の端に引つ掛けた妙な恰好で突つ伏してゐる。そこから少し離れた床の上には鐵の管が投げ出されてゐたが、長さ一メートル太さ五センチばかりで、一方の端には血がねばりついてゐた。そして、床、壁、天井にまでも血が飛び散つて一面に凄慘な唐紅だつた。
「この細君が最後に殺されたやうですな。」
と、ソオルはグスタフソンを振り返つて、
「臺所の恐ろしい物音を聞くと、細君は毛布を撥ねのけて不自由な足で寢臺を飛び出さうとしたんです。が、一足出した途端に犯人の一撃を浴びたんでせう。で、うつ伏せに倒れて、片足が寢臺に殘つた‥‥」
「うん、たしかにさうだね。」
と頷いて、グスタフソンはすぐにジョンソンの方を振り返ると、
「外に何か發見はないかね? 犯人がここへはいるのを見たやうな者はをらんかね?」
ジョンソンはかぶりを振つて、
「まだ見當りません。然し、ただ今島の者達を調べてをります。それからこの兇器ですがこれはたしかに犯人が近所で得ました物でございます。島ではかういふ種類の管を垣根の柱に使ひますんですが、その證據にわたくしは臺所の扉の邊に泥の塊を幾つか見つけましてございます。」
探偵達は今度は表側のもう一つの寢室と大きな居間を取り調べたが、格別かき亂されたやうな形跡は見えなかつた。然し、居間の一隅の小型金庫の扉が明けつ放しになつてゐた。そして、内部には事務用書類がきちんと收めてあつたが、金は少しも見當らなかつた。かうして警視、主任警部、署長の三人はそちこちで幾らかづつ證據物件を拾ひ上げながら二階の諸部屋を隅々まで尋ね歩いた。鐵の管、扉の取手、椅子類、壁などからは綿密に指紋を調べ上げた。
探偵の苦心
寒い階下の廣間。厚い外套、毛皮の帽子、無恰好な靴、見るからに筋骨たくましい島の農夫や漁師達の十二三人が不安らしい眼差でグスタフソン警視達と向ひ合せに腰掛けてゐる。早速はじまつた證人調べだつた。先づ最初の現場發見者のカアルソンとロフベルグがその經過をざつと話すと、警視はカアルソンの顏を見守りながら、
「木曜の夕方何度も電話を掛けたといふが、いつたい何の用でかね?」
「なアにね、ちよつと相談事に行かうと思つたんです。實はゼッテルベルグさんが抵當の事でいい智慧を貸して下さる筈でしたが。」
「どうだ、水曜か木曜にあの老人に會やアせんかね? またこの近所へやつて來たことはなかつたかね?」
「いいえ、もう決して‥‥」
率直なカアルソンの詞に打ち頷くと、警視はその隣の漁師のダアルベルグに視線を移した。と、途端に自分から進んで口を開いて、
「さう言やア思ひ出すことがありますよ。水曜の夕方己が漁から戻つてくるとね、別莊の方へ歩いてく奴を見ましたつけ‥‥」
「ふウん、そりや島の者だつたかね?」
「さア、分らないね。何しろずいぶん遠くの事だつたで‥‥」
警視は鋭い眼で暫くダアルベルグの顏を探るやうに見詰めてゐたが、やがて次のペタアソンの方へ向きなほつた。
「さうさね、實ア己もこ
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