の別莊の方へ歩いてく見慣れねエ男を見ましたよ。そいつはそこの石段のところに立ち止まつて、靴の雪をかいてやがつたつけ。何しろもう薄暗かつたんではつきりとは見えなかつたが、風體ぢやアたしかに町の人間みてエだつたなア‥‥」
 證人調べはまアそんな工合に進んで行つた。或る男は老人が土曜日にストックホルムへ行つたこと、行く前に或る用件を片附けるつもりだと話してゐたといふことを述べた。また島人の一人は暫く島に暮してゐた或る男が水曜日に姿を隱したといふ事實を洩らした。警視は勿論その男の名を問ひ質した。また他の一人は水曜日の午後別莊から半マイルほどの所で二人の男の乘つた自動車を見たと申し立てた。そして、その二人はフエドラ帽を眞深にかぶり、一人は角縁の眼鏡を掛けてゐたといふ事だつた。その他細君の妹のクリスチナが姉の怪我の看護や家政を見に泊りに來てゐて、慘酷な災難に逢つた事情も分つたが、とにかくゼツテルベルグ一家には敵などは全然ないらしく、誰もが老人夫婦の善良さ深切さを口々にたたへるのだつた。
 念入りな取調べにたうとう夜が明けてしまつた。運搬自動車は三つの死體をストックホルムへ運んで行つた。そして、別莊に錠を降し、二人の巡査を張番に殘すと、グスタフソンとソオルは數多くの證據品を携へ、他の警察官や助手達と二臺の自動車に乘り込んで現場をあとにした。
「どうも大した手掛りはございませんな。」
と、ソオルは疲れたやうな聲で言つた。
 グスタフソンは空を見詰めたまま詞もなく廣い肩をただ物懶げに搖すつた。そして、その双の瞳は明かに煩ひ惱んでゐたが、老人が土曜日に銀行へ出掛けたといふ事實を心ではしきりに考へてゐた。手掛りは或はその方面にあるのではないか?
 明くる土曜日の午前十時、警察廳の刑事部長室では眼鏡を掛けた、優型の、神經質らしいゼツテルクイスト部長を中心にしてグスタフソン警視とソオル主任警部が搜査會議を開いてゐた。部長は警視を振り返つて、
「何か方針が立ちましたかね?」
「さア、有力な手掛りは二三掴めましたが、一刻も早く犯人を捉へるのが重大で‥‥」
「と言ふと?」
「つまりです。若し犯人がわたしの推察通り殺人狂だとすると、更に慘劇の繰り返される恐れがあるからです。とにかく報告書で御覽の通り殺害の手口は鬼畜に類してゐます。で、金錢もこの兇行に多少の關係はあるでせうが、何しろゼッテルベルグは明かに窃盜の被害は受けてをりません。無論、犯人が實際は金庫から何かを窃み出しながら、内部にちつとも手を觸れなかつたやうに見せ掛けることも容易ではありますがね‥‥」
 と、熱心に詞をつづけて、グスタフソンはそこでちよつと一息入れながら、
「それから金庫の扉が明けつ放しになつてゐたのは注意すべき事實です。そして、あらゆる状況は犯人が老人と知合ひの間柄だつたことを示してゐます。たとへば犯人が借金の返濟に來たとほのめかし、金庫にしまつてある借用證文を老人に戻してくれと言つたとしますね。すると、恐らく老人は金庫を開いて證文を取り出すでせう。その咄嗟に犯人はそれを奪ひ取り、慘虐な襲撃を加へる‥‥」
「なるほど、一つの考へ方です、而も、如何にも頷ける‥‥」
 と、ゼッテルクイストは強い同感の色を見せた。グスタフソンはソオルを顧みながら、
「君、今朝の内に何か獲物があつたかね?」
「さうでございますな。先づ第一に‥‥」
 と、ソオルは明快な句調で受け答へて、
「鐵の管にあつた指紋を調べました。正しく男子のものです。然し、指紋臺帳に全然載つてない所を見ると、前科者でないのは明瞭です。第二に各方面を搜査しましたが、島から姿を隱したといふ例の男の居所はまだ突き留めることが出來ません。それから第三は水曜の午後二人の男を島まで乘せたといふ自動車の運轉手ルンドベルグを發見したことです。二人は釣に行くと申しとつたさうですが、一人が角縁の眼鏡を掛けてゐたといふ點は島の者の證言と全く符合してをります。なほその眼鏡の男は貴族風に見え、詞に外國訛りがあつたさうです。」
 ここでソオルは急に語調を改めながら
「それから今一つは老人が先週の土曜に銀行へ出掛けたといふ例の聞込みです。行員に質してみますと、その時格別の大金などは引き出さなかつたさうですが、をかしいのは銀行へはいつて來た時非常に苛立つてゐたといふ[#「といふ」は底本では「とい」]事實です。そして一先づ立ち去つて二時間ばかりで戻つてくるとまた暫く銀行にゐて一人の行員と何か話し合つてゐたと言ひます。で、さきほどその行員を訪ねてみましたが、折惡しく不在で、暫くしたらもう一度行つてみるつもりでをります。」
「ふふウん、そりや素晴しい手掛りだ。」
 と、グスタフソンは我が意を得たりとばかりに力強い調子で言つた。
「何しろ時間を空費しない事だね。そして、何か重大な發見があつたら、時を移さず電話を掛けてくれ給へ。さつきも言ふ通り、この際緊急事は一刻も早い犯人の捕縛だよ。」

    意外な展開
 三十分ほどの後、ソオル主任警部は銀行の一室で尋ねる行員と膝を突き合せてゐた。行員はその日のゼッテルベルグ老人の樣子をあらまし語り終ると、何の用事でどこへ行つたかは分らぬが、その時老人がすぐ近所の町角に駐車してゐる辻自動車に乘つたといふことを傳へて、ひよいと傍の窓を開くと、
「あア、あすこにゐるあの自動車ですよ。」
 その詞に躍り上つてそこへ駈けつけると、ソオルは件の辻自動車《タクシー》運轉手ヘルベルグを發見した。早速老人の人相を語り聞かせると、運轉手は合點しながら、
「ヘエたしかに乘せましたよ。人相もよく覺えてまさア。おつしやる通り先週の木曜のお晝過ぎでしたが、北マラアストランド街の素晴しい屋敷まで行きました。何でもフオン・シイドウ男爵を訪ねるんだが、おいでになるかななんて言つてでした。」
 どきりとして、ソオルの顏は思はず固くなつたが、その驚きの色はうまく胡麻化してしまつた。ヤルマア・フオン・シイドウ男爵と言へばスウェーデン切つての金持で、大資本家の一人だつた。
「やア、どうも有り難う。」
 と、さりげなく言つて、ソオルはその町角を立ち去つた。
 一町場ほど行くと、ソオルは別の辻自動車を北マラアストランド街へ急がせた。車中、ソオルは胸の中に自問自答しつづけた。音に聞えた富豪の男爵と名も無い金貸の老人との間にいつたいどういふ繋りがあるのか? 例の金庫の中にも二人の關係を示すやうな何物も見當りはしなかつた。況してやモルトナス島のあの兇惡な慘劇とストックホルムの富の王者とを結びつけるなどは?
 北マラアストランド二十四番街、宏壯な五階建てのアパアトメント・ハウス、その三階の八室全部を領するシイドウ男爵家、程なくソオルが、そこの玄關に案内を乞ふと、暫くして戻つて來た若い小間使は、男爵が書齋で面會する旨を傳へた。
 ソオルは廊下を通り、豪奢に華麗に飾りつけた應接間を横切ると、やがてちよつとした部屋へはいつて行つた。すると、もう老年に近い、丸顏の人間が裝飾的な彫刻のある机を前にして、背中の高い椅子に大きな體をゆつたりと凭せてゐた。そして、表情のない眼でぢつとソオルの方を見守りながら、
「どういふ御用向きかな?」
 ソオルはモルトナス島の慘劇をざつと語り聞かせてゼッテルベルグ老人の殺される前の行動を取り調べてゐる事情を説明すると、
「それで、先週の土曜に老人が御當家へ參上したことが判明しました譯ですが、その點に就き搜査の御援助を戴きたい次第で‥‥」
「さやうさ、たしかにやつて來ましたよ。」
 と、男爵は重苦しい聲で言つて、
「だがな、あの老人とは久しい以前からの知合ひでして、心安立てにちよつと訪ねて來たに過ぎませんのぢや。で、今朝方の新聞であの老人夫婦が殺されたと知つて誠に驚いとる譯です。從つて、搜査のお役に立つやうなことは格別お聞かせも出來ませんですて‥‥」
 靜に打ち頷きながらも、ソオルは密に探るやうに男爵の顏を見詰めてゐた。次の刹那、もうこれ以上何も聞くまいと決心の臍を固めて、そのまま暇を告げた。そして、警察廳へ歸るや否や待ち兼ねてゐたゼッテルクイスト部長とグスタフソン警視と會見した。
「男爵はたしかに何かを隱してゐます。」
 と、ソオルはさすがに興奮の色を浮べて、「聲はしつかりと落ち着いてゐましたが、眼が神經過敏に瞬いてるんですな。とにかくありやア何かにひどくおびえてゐる證據で、どうも見るに忍びなかつたもんですから、強ひて問ひ重ねることはしませんでした。」
 部長と警視は頷き返したが、正に呆然自失の體だつた。男爵の沈默の蔭には果して何が潜んでゐるのか?
 土曜と日曜の終日ストックホルム警察廳は犯人の捕縛に必死となつたが、いろいろな手掛りも空に歸して、警察官や探偵達もただ疲れるばかり、すると、モルトナス島の慘劇發見からわづか五日目の三月七日の月曜の夕方午後五時といふに主任警部室の電話の鈴《ベル》がけたたましく鳴り響いた。
「えつ、な、何だつて?」
 受話器を耳に當てたソオルの顏は忽ち眞青になり、あたふたと自席を飛び出して警視室の扉を荒々しく引きあけると、今耳にしたばかりの驚くべき報告を傳へた。
 瞬間、グスタフソンの大きな顏もさつと青白み、肩先ががくりと戰いた。果然、ゼッテルベルグの別莊の物凄い殺戮は何等かの祕密な筋道で百萬長者フオン・シイドウ男爵へ繋がつてゐたのだ。グスタフソンはその丸々とした兩手を机の面に突つ張つてぐいと立ち上ると、呶鳴りつけるやうな聲で、
「さア、すぐ出掛けよう。」
 そとはひどい雪で、警察自動車は獨特の無氣味なサイレンを絶えず響かせながら進んで行く。ソオルは暗い行手をぢつと見守つてゐたが、やがてグスタフソンに囁きかけた。
「一昨日訪ねた時、男爵がもつと率直に打ち明けてくれましたらね! たしかに何か祕密を胸にたたんでゐたやうですが‥‥」
 グスタフソンは無言だつた。そして、警察自動車は街燈の光りも見え分かぬ、雪の深い通をのろくさい速度で走つてゐたが、やつとのことで、シイドウ男爵の住ふアパアトメント・ハウスの廣大な入口に辿り着いた。

    解き得ぬ謎
 グスタフソンとソオルは早速昇降機で三階へ急いだ。そして、二人の巡査の張番してゐる玄關を通ると、ソオルは先に立つて例の豪奢な應接間へはいつて行つた。と、數人の警察官に取りかこまれた一つの安樂椅子、その上に顏の上半を打ち碎かれて血みどろになつた男爵のでつぷりした體が横たはり、椅子にも高價な敷物にも血が流れてゐた。
「もう事切れてゐるのかね?」
 と、ソオルはその傍に膝まづいてゐた警察醫に向つて聲高く尋ねかけた。
「はい、たうとう意識を回復なさらないで、今し方息を引き取られました。」
 醫師がさう答へると同時に一人の巡査部長が進み出て、堅苦しく一禮しながら、
「血の痕を見ますと、男爵は食堂で打ち倒され、ここまで引き摺つて來られたもののやうです。犯行は男爵の姪御のモニカ・シユワルツ孃によつて三十分ほど前に發見されたんでありますが、裏側の部屋にも同樣な手口で殺害された死體がございます。それ等はわたし共が來た時には全く絶命してをりました。」
「それ等とは?」
 と、グスタフソンが尋ねかけた。
「雇女であります。一名は老家政婦のカロリナ・ヘルウ、一名は若い小間使のエツバ・ハム、どうぞあちらで御見分願ひます。」
 巡査部長の案内で食堂を横切ると、住居の裏側へ進んで行つた。先づ臺所には顏をぐざぐざに碎かれた小間使が仰向きに倒れて、床にも家具にも血が飛散してゐた。そして、無慘にも剥がれた兩手の爪、それは死に面して娘が如何に狂ひもがいたかを語り、頭蓋からへぎ取られた一束の髮の毛さへ死體の傍に投げ出されてゐた。
「一昨日取次に出たのはこの娘でした。」
 と、ソオルは死體の傍に膝まづきながら、
「この娘も男爵もゼッテルベルグの一家と全く同じ手口で殺害されてをりますな。」
 グスタフソンは頷いた。巡査部長は更に隣の小部屋へ導いて行つた。そこの床にはうしろの頭蓋骨を打ち碎かれた老婆がうつ伏せに倒れてゐた。巡査部長は
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング