上役を振り返つて、
「この婆さんは戸口に背中を向けて搖り椅子に凭つてゐた所をやられた模樣です。で、犯人の一撃を受けると、一溜りもなくうつ伏せに倒れてしまつて、小間使のやうに抵抗する隙は全然なかつたものと考へますが‥‥」
「君、兇器は見つからんかね?」
 と、グスタフソンは尋ねかけた。
「それから、犯人をどこかで見掛けたといふやうな者は?」
「はい、兇器はまだ見つかりません。」
 と、巡査部長はかぶりを振つて、
「それから、犯人の目撃者に就きましては部下に申しつけまして、この建物や近所の住居人を早速調査させてをりますが‥‥」
 グスタフソンとソオルは住居の表側の方へまた戻つて行つた。グスタフソンは相變らずすべての點に機敏で拔目がなかつた。そして、部下に適宜の指示を與へたりしたが、相つぐこの恐ろしい慘劇にはさすがに打ちのめされた樣子だつた。ヨオロツパでも警察力の完備した所と聞えたストツクホルム、當然喧々囂々たる非難の矢面に立つ責任者だつたから‥‥。
 檢視を濟ましたグスタフソンが間もなく引き揚げて行くと、ソオルは早速證人喚問に取りかかることにしたが、男爵の行動を調べさせてゐた刑事の報告がそこへ屆いた。それに依ると、男爵は四時少し前に事務所を引き揚げアパアトメント・ハウスの入口で自動車を降りたが、それがお抱へ運轉手の眼に殘る生きた主人の最後の姿で、溜間《ロビー》からすぐ昇降機で三階へ昇ると、自分で鍵をあけて住居の中へはいつて行くのを昇降機のボオイも見屆けてゐたといふのだつた。ソオル巡査部長、警察醫の三人はたつた二日前に老富豪がソオルを引見した書齋で暫く協議を重ねた。
「女達が先に殺されたのはたしかかね?」
「たしかですとも‥‥」
 と、醫師はソオルの問ひに答へて、
「二人の死體の模樣では、男爵が戸口をはひつた時には全く絶命してゐたことでせう。」
「ふむ‥‥」
 と、ソオルは男爵の机の端に腰掛けて鉛筆でその面をこつこつ叩きながら、
「すると、二つの場合があり得る譯だな。男爵が犯人を驚かしたか? 或は犯人が殺意を以て用意周到に待ち伏せしてゐたか? それにしても、まるで物取の形跡がないとは?」
「全くですな。」
 と、巡査部長は肩を搖す振つた。
「とにかく男爵の姪を先づ調べてみよう。それからこの住居へその娘さんをはいらせたといふ昇降機のボオイをね。」
 立ち上つた巡査部長は間もなく十三歳の可憐なモニカ・シユワルツとボオイの制服を着た若者を連れて引き返して來た。
「お孃ちやん、どういふことがあつたか、すつかり話して下さいな。」
 と、ソオルは優しく問ひ掛けた。
 すつかりおびえきつてゐるモニカは咽び泣きしながら、やつとのことで口を開いた。
「あたし四時に學校を引けて來たの。そしてお玄關の呼鈴を押したんだけど、誰も返事しないんだもの、變だと思つたわ。だつて、その時間にはエツバもカロリイナもきつとおうちにゐる筈なのよ。」
 と、ちよつと小首をかしげて、
「どうしていいか分んないから、あたし四階のヘイマンさんとこへ行つて譯を話したの。さうすると小母樣がこのボオイさんにそ言つて鍵をあけさせて下すつたわ。そいから應接間へはいつて行くと、叔父樣が顏を血だらけにして安樂椅子に横んなつてらつしやるんだもの。あたしきやアつてつて‥‥」
 瞬間、誰しも思はず息を呑んだ。やがてソオルは穩かな、いたはるやうな調子で、
「叔父樣が誰かに會つたなんておつしやりはしなかつた? つまりお客樣か何か‥‥」
「そんなこと、あたし分んないわ。」
 と、モニカはかぶりを振つた。ソオルはボオイの方へ向きなほると、
「今日の午後外には誰もここへ案内しなかつたといふが、間違ひないかな?」
「はい、モニカ樣と男爵樣の外にはたしかにどなたも‥‥」
 と、ボオイは躊躇なく答へて、
「それから門番さんも別にはいつた者は見ないと言つてますが、門番さんのゐなくなつたちよつとの隙に、犯人が通りから溜間《ロビー》へこつそりはいることは出來なかアありませんや、さうだと、あたしの眼にも着かずに階段の方から階上へ昇つて行けまさア。」
「やア結構結構」
 と短く言つて、ソオルは突然立ち上つた。部長はすぐに二人の證人を連れて去つた。
 ソオルは改めて現場を綿密に調べ歩いた。そして、人目に觸れずに玄關に達した犯人は無理な侵入の跡のない點から見ると小間使と知合ひか何かで簡單に中へはいつたものと推定したが、この邊ゼッテルベルグの慘劇と類似の點があるのに注目した。それから犯人は先づカロリイナを難なく慘殺し、つづいて小間使のエツバを襲つたが、その必死の叫びも抵抗も非常に厚い壁のためにどこへも聞えず、さうして間もなく主人の老男爵が死の罠へ歩み込んで來たのに相違なかつた。
 それにしても、いつたい何の目的で少しも防禦力のない二人の女を殺害したのか? 一方、男爵はいつも紙入に大金を入れて置くといふことだが、死體の懷中には一文の金もなく紙入も見つからなかつた。この點ちよつと強盜の仕業らしくもあるが、物取が目的ならただの|追剥ぎ《ホールド・アツプ》でも濟む譯。尤も、何かの理由で殺害の後、犯人が出來心で奪ひ取ることもあり得るが、どうにも不可解なのはその二人の女の慘虐な殺し方だ。
 今やソオルはゼッテルベルグ、シイドウの兩慘劇が同一犯人の仕業であることを固く信じた。そして、それが一種の殺人狂の兇行だとするグスタフソン警視の見込が正しいこと、犯人が少くともシイドウ男爵家に何かの縁故を持つ者だといふことをはつきりと感じるに至つた。

    淡紅色《ピンク》の下袴《スリツプ》
 三つの死體を運搬自動車で送り出したあと、ソオルは更に辛抱強い探査をつづけてゐたが、やがて何の氣もなく應接間の長椅子の褥をひよいと持ち上げた途端に突如として眼に著いた生々しい血染めの布、何とそれは婦人の肌に著ける贅澤なレイスで縁取りした絹の下袴の斷片ではないか?
「大發見、大發見‥‥」
 と、もとは淡紅色なのだが今は血で眞紅に染まつたその下袴の兩端をつまんで眺めてゐると、巡査部長が飛び込んで來て、
「な、何でございますか、それは?」
「血を拭いた布だよ。」
 と、ソオルはその發見に大滿足の體で、
「然し、いつたい誰の物かね? 無論、あの孃ちやんや雇女達の用ゐる奴ぢやない。こりやア非常に金持の女の肌着の一部分だよ。」
 部長はひどく驚いた樣子で小聲になり、
「まさか犯人が女なんていふことは‥‥」
「いや、どんな女だつてあんな打撃を加へ得る力があるものか。だが、女が犯人と一緒といふことはあり得る。若しかすると、この兇行には何かの形で女が交つてるぞ。」
 間もなく、戸棚の中の重ねた食卓掛布《テーブル・クロス》の下から血染めの下袴の殘りの隱してあるのが見つかつた。それは肩の釣革を引きちぎつた下袴の上半だつたが、その無氣味な第二の發見物を調べてゐたソオルは突然呶鳴つた。
「圖星だ! 正に女が登場してゐる。つまり着物の下から下袴を引きちぎつて、そいつで血をぬぐつたんだよ。」
 その時玄關の扉を強く叩く音がした。そして、やがて一人の巡査が制服を着た郵便集配人を伴つて來ながら、
「實はこの男が犯人らしい者を目撃しましたさうで‥‥」
「そ、そりやアどういふ奴だつたね?」
 と、ソオルはひどく熱心に尋ねかけた。
「さやうさ、四時に十分ほど前でした。」
 と、集配人は考へ考へ話し出した。
「ここへ配達にやつて來て、溜間《ロビー》に郵便物を置くとすぐ表へ出ましたが、途端に一臺の自動車が入口の正面に止まつたんです。何しろひどい雪降りで十分には分りませんでしたが、どうも辻自動車だつたやうで、中から一人の男が降りてくると入口の方へ歩いて行きました。そして、ふと扉の所に立ち止まると車の中の誰かに聲を掛けたやうでしたが、その時あたしは歩き出してましたんで‥‥」
「外には誰も車から降りて來なかつたかね? そして、門番は入口にゐたやうかね?」
 と、ソオルの問ひに集配人は首を振つて、
「いいや、門番はをりませんでしたよ。それから他には誰も降りて來なかつたやうです。何しろちやうど歩き出してたんで、その男の顏もよくは見ないやうな譯なんで‥‥」
 何か犯人の人相風體を聞き出さうと必死になつてゐたソオルは、可成りがつかりした樣子だつた。が、その辻自動車に乘つて來たといふだけでも正に絶好の手掛りだつた。
 次の刹那、ソオルは電話器に飛びついて、グスタフソン警視を呼び出し、いろいろの發見や自分の斷案をてきぱきと語り傳へた。すると、今度は警視の方で何か話し出した樣子だつたが、ソオルの顏は急に緊張した。
「は、は、早速出掛けることにします。」
 と答へて、ソオルは手荒く受話器を掛けるや否や部長に張番のことを命じ、ひどく氣ぜはしげな樣子で門口を出て行つた。

    青天の霹靂
 吹雪の夜、ソオルの乘つた警察自動車は十五分ばかりでストックホルムの中心地、上流人士の集ふ料理店テグネルの電光映え輝く玄關に横づけになつた。早速支配人に面會を求めると、優雅な音樂の響き漂ふ大食堂の方を眺めながら、ソオルは溜間《ロビー》の一隅で首を長くしてゐた。と、やがて支配人が姿を見せて、
「これはこれはソオル樣で? そのお品はたしかに事務室の方に保管してございます。」
 案内されて事務室へはいると、机の上にハトロン紙で包んだ物が横たへてあつた。可成りな重さ、開いてみると、長さ半メートル餘の鐵の管で、綺麗に拭ひ取らうとした形跡が見えたが、端の方になほ血が殘つてゐた。
「三十分ほど前でしたか、殿方の手洗所でこの品を見つけましたんで‥‥」
 と言つて、支配人は誰が持つて來たものか誰がそこに置いたのか、給仕人達も手洗所の番人も一向氣が附かなかつた由を説明した。
「切斷したばかりの新品だな。」
 と、ソオルは愼重に管を調べながら、
「それにこの包紙はたしかにこいつを買つた店の物だね。こりやア調べがつくぞ。一つ電話を貸してくれ給へ。」
 ソオルは再度グスタフソンを電話口に呼び出して發見品のことを報告した。すると、警視はまた何かの命令を與へたらしかつた。
「畏りました。わたくしから十分御注意なさるやうにお傳へしませう。」
 と答へて、ソオルは管の指紋と包紙の出所を調べることを警視に依頼した。
 數分の後、ソオルを乘せた自動車はまだ鎭まらぬ吹雪を衝いてストツクホルムから程近い有名な大學都市のウプサラへ再び急いでゐた。そこには殺された百萬長者の後嗣《あととり》で、貴公子風な若男爵のフレデリック・フオン・シイドウが學生生活を送つてゐる。その青年を殺人狂の毒手から守ること、その口から何か犯人の手掛りを掴むこと、それがグスタフソンのソオルに與へた命令だつた。
 二十分ほどで自動車はウプサラ警察署の前に止まつた。そして、緊張の面持でソオルが署長室へ駈け込んだその時、署長のエリクソンはちやうど受話器を掛け降した所で、
「ただ今若男爵のをられる場所を部下から報告してまゐりましたんです。」
 と、署長は早速自分から口を切つて、
「實はお住居の方においでがないんで少々氣をもんでをりました所、若夫人と御一緒にヂレツト・ホテルで御晩餐中と分りました。何でも御友人方と賑かなお集りださうで、わたしが參るまでお父上の御最後に就いてはお聞かせするなと命じて置きました。すぐにお伴してあちらへ參りませうか?」
「よからう‥‥」
 と頷いて、ソオルは署長が外套を着るのを待つてゐた。そして、あはや二人が出掛けようとした刹那、けたたましい電話の鈴!
「警部殿へです。」
 さう署長に言はれて、受話器を受け取るなり耳に當てたが、向ふはグスタフソン警視でその聲は凄まじいばかりの興奮に殆ど聞き取れないほどだつたが、ソオルの顏は忽ちさつと灰白色に變つてしまつた。
「な、何事ですかつ?」
 と叫んで一歩前に出た署長を制しながら、暫く貪るやうに耳を傾けてゐたソオルはやがてがちやんと受話器を降すと、聲ひそめて、
「ヂレツト・ホテルへ急行だ。一刻も猶豫はならん。正に青天の霹靂‥‥」

    死の接
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