と云ふ気のしない事である。云ひ換へれば、氏は余に智《インテレクト》の作家だ、余に書斎的な芸術家だ。即ち、氏の芸術の胎は全人間の内に無くして、寧ろその一部である頭の内にあるやうに思はれる。これは恐らくは氏が世相の体験裡に自己を育てられて来た芸術家と云ふよりも、寧ろより多く書斎裡の智的努力に依つて自己を育てて来た芸術家であるからではないかと私は考へてゐるが、とに角、私の知れる限りでは、氏程多読多識な作家はない。全く壮年三十にして氏がよくあれだけ汎く読み、且つ理解し、且つ記憶してゐられたものだと、私は何時もその努力を感心してゐる。然し、芸術家にとつて多読多識はその芸術の或る力になり得る事は疑ひないにしても、それが芸術の本質にどれだけ寄興し得るか否かは問題である、少し古臭い――と云つてもやつぱり永遠の真理には違ひない事であるが、芸術家は智よりも、先づ人間である事を求めなければならない筈だから……。が、何れにしても、元来智の人である芥川氏は、その智的努力に依つてますます智的に傾いてゐる。そして、その智は無論叡智と云へる程の神々しさはないが、また時には才智と云へば云へる上滑りした智に堕する傾向を持
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