つても氣質は爭はれない。」
 さういふ詞がしばしば或る人間の言行に對して言はれる。これは何かの場合如何にも自然にふつと現れ出るその人本來の姿に對して放つ、幾分詠歎的な意味を含めた詞であるが、どう隱し、どう佯り、どう飾つてゐても人の持前といふものは、いつかどこかで何等かの形で自然に流露するものだといふ事だ。そして、これはなた同樣に文章に對してもそのまま言へる詞だ。
 例へば如何に文章を美しく綺麗に書かうとしても、その人の氣質に不純な濁つたものがありとすれば、到底筆先だけで胡麻化せるものではない。よしや凡愚を感心させ得るとも、識者は忽ちそれを見拔くであらう。また前にも言つたやうに誰を模し彼を眞似るといふ事がたとへ可能であつても、その人の持前がその誰彼に至つてゐない限り結局ボロを曝露するばかりだ。實際、私達はエセ泉鏡花やエセ正宗白鳥などの亞流に幾度顰蹙させられた事であらうか? 本來氣質の暗い陰氣な人が明るい快活な文章を書かうとするのも嘘であらうし、頭のそこに至らない人が、無理に皮肉やユウモアに富んだ文章を書かうとしたら、それは大概鼻持ちもならぬものにならう。要するに持前を生かすといふ事が文章
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