氣質と文章
南部修太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)temperament《テンペラメント》 といふ

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(例)里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
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「文は人なり。」
 これは高山樗牛の有名な詞である。が、今は古めかしいこの詞も結局は永遠の眞理である。言ひ換へると、文章は人格の再現なりといふ事になるが、これをもつと狹い意味に文章は氣質の再現なりとも言へると思ふ。
 實際、文章ほど複雜多岐多樣の相貌形態を持つてゐるものはないが、これは作者なり筆者なりの人格或は氣質が自然に現れ出でるからに外ならない。新聞記事とか科學者の研究論文などは適確な事實の報道乃至は冷靜な眞理の報告のためであつて、文章としては全然筆者の主觀の介在すべき性質のものではない筈であるが、なほ且つそこには筆者獨自のいろいろな調子や色合が現れ出る。で、繪畫や筆蹟などにはしばしば殆ど眞に近い贋物があり得るが、文章の贋物などは絶對に不可能と言つていい。まだ年若な文學志望の人達の中に武者小路實篤を眞似るとか、久保田万太郎を模倣するとかいふのがよくあるが、完全に似せ得るものでもないし、またそんな文章に、言ふならば、作者或は筆者の人格なり氣質なりの現れ出ない贋造の文章に文章としての生命や面白味は全然ないのである。で、一人の人間の文章の達成とは、やや極端に言へば、その人なりの個性や氣質を十分に生き生きと生かし、織りなす文章を作り上げるといふ事に外ならない。

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 氣質とは何か? 殆ど文學的な常用語になつてゐる temperament《テンペラメント》 といふ英語はこれに當るのだが、その人の精神的素質、もう少し碎いて言へば、その人の心の持前《もちまへ》といふやうな事になる。どうもかういふ詞の定義はなかなかむつかしいが、先天的なものでもあり、また同時に後天的なものでもある人間の素質、さうかと言つて、その人に嚴然と動きなく備はるといふほどでもなく、時には氣分に依つて刹那的に幾分の變化動搖を見せぬ事もないのだが、とにかくその人の根柢に横はつて自然に流露してくる心の姿とでも言つたらいいであらうか?
「何と言
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