つても氣質は爭はれない。」
さういふ詞がしばしば或る人間の言行に對して言はれる。これは何かの場合如何にも自然にふつと現れ出るその人本來の姿に對して放つ、幾分詠歎的な意味を含めた詞であるが、どう隱し、どう佯り、どう飾つてゐても人の持前といふものは、いつかどこかで何等かの形で自然に流露するものだといふ事だ。そして、これはなた同樣に文章に對してもそのまま言へる詞だ。
例へば如何に文章を美しく綺麗に書かうとしても、その人の氣質に不純な濁つたものがありとすれば、到底筆先だけで胡麻化せるものではない。よしや凡愚を感心させ得るとも、識者は忽ちそれを見拔くであらう。また前にも言つたやうに誰を模し彼を眞似るといふ事がたとへ可能であつても、その人の持前がその誰彼に至つてゐない限り結局ボロを曝露するばかりだ。實際、私達はエセ泉鏡花やエセ正宗白鳥などの亞流に幾度顰蹙させられた事であらうか? 本來氣質の暗い陰氣な人が明るい快活な文章を書かうとするのも嘘であらうし、頭のそこに至らない人が、無理に皮肉やユウモアに富んだ文章を書かうとしたら、それは大概鼻持ちもならぬものにならう。要するに持前を生かすといふ事が文章の本義だからだ。
3
現代作家の文章を考へてみても、ごく大まかな詞ではあるが、志賀直哉は驚くほど神經質に鋭く簡潔、菊池寛は無駄なく直截適確、谷崎潤一郎は莊重で力強く、佐藤春夫は典雅纎細、里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]は流麗精緻、――一一擧げたらきりがないが、さういふ特色は言ひ換へれば、作者の氣質持前の現れに外ならない。つまり一家をなすそれぞれの作家はおのづから生かすものを己れの文章の上に生かしてゐるのだ。
文章の上にそれぞれの氣質持前を生かすといふ事は、逆にそれぞれの氣質持前は文章に對してどう働きかけるかといふ事にもなる。實際、作者なり筆者なりが文章を書く態度はこれはまた千差萬別である。卑近な事を言へば、きちんと書齋の机に向つて正座しなければ書けぬ人もあるし、疊や寢床の上に腹這ひになつても書ける人もあるし、時には混み合つた動搖する汽車の中などで平然と筆を動かす事の出來る人もあるといふ風だ。また一字一句もいやしくせず、字の使ひ方假名使ひにまで神經をくばり、營營切切と文章をなす人もあれば、筆の走り動くがままに、驚くばかりの早さで、奔放自在に文章をなし
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