やうに總身から消え去つて、血潮の赤が限りなく遠くに霞んだかと思ふと、私はくらくらと倒れかかつた。鼻に腐肉を嗅ぐやうな匂ひを意識しながら‥‥‥。
 肩に、背中から抱きすくめた何かの力が幽かに感じられた。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥。
 耳元に幽かに囁く人聲がした。冷かな風が首筋を掠めて過ぎた。と、私は漸く我に返つた。そして、けばけばしい日光の反射が疼くやうに網膜を差すのに眼を細めながら、ひよいとあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した時、私はお前の病室の窓際の椅子に身を投げ掛けてゐたのだつた。
『敬さん、敬さん‥‥‥‥』
『氣が附いたか‥‥‥‥』
と、お前の母と兄の聲がまだ遠くの人聲のやうに、同時に耳を打つた。
『あ‥‥‥』と、吐息づきながら思はずはつきり眼を見開いて、母と兄の顏を見守つたが、それはまつ青な、云ひ知れぬ不安を湛へた、陰鬱な顏だつた。
 頭はまだ空つぽだつた。すべての意識は混沌としてゐた。ただ、吐氣のつきさうな感覺と、腐肉を突きつけられてゐるやうな匂ひとが、むつと胸元に感じられるだけだつた。
『やつぱり大丈夫ぢやなかつたな‥‥‥』と、兄は暫くしてかう云つた。
『ええ‥‥‥』と、私は[#「私は」は底本では「私の」]その意味を捉へ兼ねて訊き返した。
『まあ、どんなにびつくりしたでせう、敬さん‥‥‥』と、お前の母はぢつとその私を見詰めた。
『いや、とうとう腦貧血を起してしまつたぢやないか‥‥‥』と、兄は詰るやうに云つた。
『腦貧血‥‥‥』と、思はず聞き返した時、私の意識にはすべての經過がはつきり蘇つた。そして、手術室にゐるお前の事がぎくりと思ひ出されたのだ。
『あの、藤子は、藤子はどうしたんです‥‥‥』と、私は叫んだ。
『ふむ、今濟んだと云ふ知らせがあつた。大變巧く行つたらしい‥‥‥』と、兄は落ち着いた調子で答へた。
『巧く行きましたか‥‥‥』と、云ひ返した時、私はがくりと重荷を下したやうな心の安らぎを感じた。そして、窓臺に頸を凭せかけながら眼を瞑つた。
『ほんとにお前のお蔭で餘計な人騷ぎをした‥‥‥‥‥』
『それでもまあ直ぐ鎭まつて、ようございましたね‥‥‥‥』
『それもさうですが、ほんとに云はんこつちやない‥‥‥』と、兄は幽かに舌打ちした。
 私は深く息を吸つた。そして、明け放した正面から窓の方へ流れてくる涼しい風に吹かれながら、ぢつと口を噤んでゐた。もう夕方が近いのだつた。眞晝の燒けつくやうな暑さが和ぐ頃だつた。意識は次第にはつきりして來た。感情の劇しい興奮も弛んで來た。昏倒した體の後疲れが何處となく感じられて來た。そのまま身動きもせずに、お前の母や兄の詞に答へようともせずに、私はぢつと僅か一時間程の間に自分が過ぎて來た複雜な心の跡を顧みてゐた。と、それがまるでかりそめの夢だつたやうな、また氣まぐれに自分の前を掠めた幻影だつたやうな氣もした。
『さうだ、夢であれ、幻影であれ‥‥‥』と私は思つた。
と、『お前の爲めに餘計な人騷ぎをした‥‥‥』と、單純に私を責めてくれてゐる兄の詞までが決して恨めしくは思へなかつた。すべてをさう思つて、ただ單純に私が昏倒したのだ――と思つてゐてくれたら、お前の手術の結果が巧く行つたと云ふ歡びをすべてが感じてゐる今、それはどんなに幸福な解釋だつたか知れないのだ。
 が、夢だつたらうか、幻影だつたらうか。私にはそれが忽ち冷かな現實の、過ぎ去つたものではあるが到底疑ふ事の出來ない現實の姿となつて、ひしひしと心の前に浮んで來たのだつた。そして、それが現實であつたと思ふと同時に、私はあの昏睡期に這入つたお前が囈言のやうに語り續けたあの詞が、實際實の事だつたらうかと、また疑はずにはゐられなかつた。
『若しそれが現實の事だつたら、そして、お前とあの貞雄君が‥‥‥』と、私は考へた。
と、私には戰慄が來た、苦悶が來た。そして、直ぐにその考へを否定してしまつた。お前が、またあの貞雄君が――と思ひ並べる事は、私には到底堪へ得ない恐ろしい想像だつた。淺ましい自分の邪推に過ぎないと否定せずにはゐられない事だつた。が、お前のあの聲がまざまざと耳に殘つてゐるのをどうしようか‥‥‥‥。
と、私の默想はまたあの廊下に軋る[#「軋る」は底本では「軌る」]運搬車のゴム輪の音に破られた。
 お前はまた死人のやうに眠つてゐた。顏は灰白色に變つて、脣は紫色にしぼんでゐた。眼は何時開かれるとも知れないやうに閉ぢられてゐた。そして、艶々しい黒髮も、ふくよかな片頬の肉も、黒み勝ちな瞳も、何時も潤んだその赤い脣も――すべてはお前の姿から忘れられてしまつたやうに思はれた。そのお前が母や看護婦達の手に依つて寢臺の上に寢かされて、靜かな、幽かな、安らかさうな息が病室の靜けさの中に聞えてくるまで、私は我を忘れてぼんやりお前を見守つてゐた。
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング