マスクを口元に覆つて、す早く手術臺に近く立つた。お前の後半身は助手に依つて生々しく露出された。
『ほんとに許して‥‥‥ああ‥‥‥惡かつたわ‥‥‥だつてあの時あなたが‥‥‥あの道で‥‥‥手を‥‥‥熱い‥‥‥』と、喋舌り續けてゐるお前をぢつと見返りながら、水島は暫く佇んでゐた。と、その眼には暗い影がちらりと差して、それをひよいと私の顏に振り向けた。
『ひどい囈言だ‥‥‥』と、私は水島の視線を避けながら、湧き返るやうな胸の混亂を抑へてかう呟いた。
『何、直ぐ止む‥‥‥』と、かう答へた時、水島の眼に差してゐた暗い影は消えた。
 が、囈言と云つた私は、すべてを否定して濟まさうとしてゐた私は、其處まで來た時もうお前の昏睡の脣から洩れてくるその斷續した詞の意味を囈言と思ふ事も、否定し濟ます事も出來なかつた。頭にはかあつと血が上つて來た。胸の鼓動は小指先にまで鋭く傳つて行くのを意識した。そして、私は水島や助手や看護婦の前に、いやさうして尚ほも脣を動かし續けてゐるお前の前に佇んでゐる堪らない苦痛と、赤面と、恥ぢと、戰きとにあらがつて行く事は出來なくなつた。が、私は却く事も、進む事も、耳を抑へる事も、顏を反ける事も出來なかつた。恰も地に釘づけされたやうに、凝化してしまつたやうに、私は手術臺を二三尺離れて立ち惱んでゐたのだつた。
『あたしが惡いわ、いいえ、あたしが惡いわ。でも、もう爲方がない‥‥‥どうする事も‥‥‥苦しい‥‥‥痛い‥‥‥許して、許して‥‥‥あの晩、ほんとにあの晩‥‥‥貞雄さん‥‥‥誰にも、誰にも‥‥‥考へ‥‥‥思ひ違ひ‥‥‥かんに、かんにして‥‥‥』と、お前の無氣味な鋭さを持つた聲は、何時か絶え入るやうな涙聲に變つて、其處でポツンと切れた。そして、すいすいと、宛ですべてが裏はらに變つて了つたやうな安らかな息が、お前の口を洩れて來た。
『三十‥‥‥』と、數へ聲を止めてゐた助手は、急に張り上げた聲でまたお前の耳元に叫んだ。
『あ、あ、あ‥‥‥』と、やがてお前はそれに答へるともない調子で呟くやうに云つたかと思ふと、深い息を吸つてそのままひつそりと鎭まつてしまつた。
 長い、けれど總身を引き絞るやうな沈默が續いた。
 私はカアテンを透して差す西日影にほの白く浮んだお前の顏を、黒髮を、瞑《つぶ》つた眼を、幽かに波打つ胸を、脹らんだ乳を、開き出された生々しい腹部を――鋭い視線の刄物で縱に斷ち切るやうにずつと見通した。そして、其處に例へ一點でも感じられる暗い影があつたら見遁すまいとした。恐らくその視線は誰の眼にも陰慘な殘酷な、光を持つてゐるやうに見えたであらう。が、その光の影には引き裂かれるやうな苦悶が、悲痛が、驚きが、失望が高く波打つてゐたのだつた。今まですべてを、いやお前の心と體のすべてを自分の物と信じてゐた私の信念が、其處で粉微塵に碎かれてしまつたやうな氣がしたのだ。
『何と云ふ事だ‥‥‥』と、かう心に獨りごちた時、私の眼にはあの貞雄君の顏が消さうとしても消えぬ幻影になつてまざまざしく映つた。
『若しやお前が‥‥‥』と、さう疑ひ返した時、また私の眼にはあの貞雄君の、呉に去つてから久しく私達の家を訪れない貞雄君の顏が、私がお前のいとこ達の中で一番好きだつた、あの快活な、懷しい微笑を口元から絶やさない貞雄君の、あのあの淺黒い顏が浮んで來たのだ。
『馬鹿な、馬鹿な‥‥‥』と、私は自分の醜い、不愉快な、瞬間に卷き起つて來た疑惑を抑へようとした。實際、それは餘りに意外な、餘りに信じられない事實だつた。が、例へそれが笑ふべき、お前の單純な幻想から湧いて來たに過ぎない囈言であらうとも、『思ひ違ひ、かんにして‥‥‥』とまではつきりお前の脣から洩れた詞を、どうして私がさう生易しく否定し去る事が出來よう。その長い沈默の間、私の頭には總身の血がかあつと煮え返つてゐた。そして、その感情の波が、ともすれば自分の意識を昏迷させてしまひさうだつた。
 が、私は辛くも自分を制御してゐた。
『メス‥‥‥』と、靜かな、深い眠りに落ちてしまつたお前をぢつと見詰めてゐた水島は、やがて落ち着いた聲で傍の助手に囁いた。
と、次の刹那、水島の手には冷かな銀色を反射する小刀のメスが執られてゐた。そして、水島の鋭い眼は暫くお前の腹部に注がれてゐたのだ。
 助手も看護婦もお前も私も、その水島も、瞬間、化石したやうに佇んだ。そして、何時の間にかスヰツチをひねられた頭上の電氣の光に、暗い陰影を型取られ、顏の眉一つを動かさなかつた。
 メスが水島の手に閃いた。助手の手にピンセツトが光つた。看護婦の手にガアゼが握られた。私の總身はさつと引き締まつた。そして、思はず瞬きして、眼を注いだ時、吹き出るやうに切り口を流れた血潮が助手の左手のガアゼを眞赤に染めてゐた。と、殆ど同時に、私の意識はすうつと拭はれる
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング