そして、コロロホルムの麻醉に、手術の痛みも、夢中な自分の詞も、私の苦悶も、私の昏倒も、そしてすべての人達の懸念も焦慮も知らずに過ぎたに違ひないお前を、何となく一番幸福者のやうに感じたのだつた。
『夢であれ、幻影であれ‥‥‥』と、かげりかけた眞夏の西日が窓を赤く染めてゐるのをぼんやり見詰めながら、お前の爲めに私はかう呟き續けてゐた。
 お前の母も、兄も口を噤んでゐた。そして、靜かな病室の中にはまだ昏睡から覺めないお前の寢息が幽に流れてゐた。(をはり)
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 作者附記[#「作者附記」は太字]――水野の手記は此篇で終つてゐる。が、この手記はとうとう藤子に送られずにしまつた。そして、藤子の退院後も二人の結婚生活は幸福に續いてゐた。藤子に送らるべきこの手記が私の手に送られて來たのは最近の事である。『死がすべてを葬つてしまつた今、この手記の發表は藤子に取つて何等の心の痛みともなるまい‥‥』と、水野はこの手記に添へて私に書いてゐる。藤子は手術の缺陷のあつた爲めか盲膓炎を再發して昨年の秋に死んだのである。水野が私の中學時代からの友人である事は云ふまでもあるまい。(九年二月)
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底本:「太陽」
   1920(大正9)年4月号
入力:小林徹
校正:はやしだかずこ
2000年10月5日公開
2006年1月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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