疑惑
南部修太郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)眞面《まとも》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|來たね《シユラアフ・ズヒテン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)引つ掻き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]されるやうな
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)途切れ/\
−−
[#天から18字下げ]――水野敬三より妻の藤子に宛てた手記――
昨日、宵の内から降り出したしめやかな秋雨が、今日も硝子戸の外にけぶつてゐる。F――川の川音も高い。町を挾んだ丘の斜面の黄ばんだ木の葉の色も急に濃くなつたやうだ。J――峠から海の方へ展がる山坡に沿うて、雨を含んだ灰色の雲が躍るやうに千切れては飛び、飛んでは千切れて行く。海の沖には風が騷いでゐるのかも知れない。とに角私が此處へ來てから暗い空模樣が今日で五日も續いてゐるのだ。著いた日の夜出した繪葉書はもうお前の手に屆いたことと思ふ。が、夏の終りに病後の一月餘りを過した時の事を思ひ浮べて、此處の晴れ晴れしい秋空を想像してはいけない。ほんとに陰氣な、物寂しい日ばかりなのだから‥‥‥‥。
藤子、もうすべてをお前に打ち明けてしまひたい。
この長い手紙、と云ふよりもこの部厚な手記を前觸れもなく突然私の手から受け取つた時、お前がどんなに怪しんで胸を轟かすか、そして、またこの手記の一句一節を次第に辿つて行く時に、お前の心がどんなに痛み、どんなに悶えるか、それは私によく分つてゐる。が、この手記に書かれてゐる事柄をお前に打ち明けようとして、私が四月餘りをどんなに苦しみ、どんなに惱んで來たか、それはこの手記を讀んでみれば自然お前にも分るだらうと思ふが、きつとお前の痛み悶えと、その強さは少しも變らないに違ひない。全く、今かうして筆を持ちながらもその心持は私を息苦しくさへするのだ。
此處へくる日の朝、私は『研究論文の想を纒めに、また體の疲れを休めに‥‥‥』と、かうお前に斷りを云つた。が、それは詐りだつた、口實だつた。全く、これだけは許して貰ひたい。私には纒むべき論文の想もない、また體の疲れを休めやうなどと云ふ心持もない。ただ暫くなりともお前から離れて、
次へ
全17ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング