すべてを深く靜に省みて、そして、この手記をお前に書き與へよう爲めに此處へ來たのだつた。お前と始終顏を合せながら、それをとうとう詞では云ひ出す事の出來ない自分の弱さを、臆病さを知り盡したから‥‥‥‥。
 私はこの手記を庭に向いた靜かな自分の部屋の縁先で、或は私の書齋の搖り椅子に凭りながら、一人讀み續けて行くお前の姿を想像する。きつとお前の指先は顫へるだらう、お前の胸の動悸は高まるだらう、お前の顏色は青白く變るだらう、若しかしたらお前の眼から涙が抑へても抑へきれぬやうに染み出すだらう。それを思ふと私の心は暗くなる、筆を動かす手先もすくんでしまふ。何故なら私が此處に書かうとする事柄に就いて、お前は何にも知らないのだから、いや、例へ知つてゐても、恐らく今のお前の胸からは美しく忘れ去られてゐる事なのだから‥‥‥。それをお前にかうして打ち明ける、お前の心を亂だす、お前の胸を苦しめる。その自分の殘酷さ、男らしい堅い沈默に堪へ得ない自分の薄志、私は決してそれを知つてゐないのではない。知つてゐるからこそ今まで苦しんで來たのだ。
 が、藤子、私を堅く信じてくれ。
 きつとこの手記はお前を苦しめ惱ますに違ひないのだ。然し、この手記を書く私は、決してお前を憎んではゐない。恨んではゐない、怒つてはゐない。またお前を責める心や、苦しめる心は少しもないので。そして私を堅く信じてくれ――と云ふやうに、私もお前を堅く信じてゐる。お前が、結婚後の私に對するお前が、私に捧げてくれた心と體、その中に籠められた愛の至純さを私はよく知つてゐる。そのすべてを信じ、且つ知つてゐるだけに、私はこの手記をお前に書き與へずにはゐられないのだ。自分の薄志と云つた、自分の弱さと云つた。が、私は決してこれをぢつと胸に包んで置けない事はない。飽くまでもお前に秘め隱す、そしてお前を苦しめず惱ませずに置く事も出來る。然し、それは夫婦生活の何と云ふ虚僞だらう。何と云ふ堪へ難い隙間だらう。その虚僞と隙間の意識が何物よりも私には苦痛なのだ。私はその虚僞を碎きたい、その隙間をしつくりと埋めてしまひたい。その爲めに私はこの手記をお前に書き與へようとするのだ。
 お前はただこれを讀んでくれれば好い。そして、心に堅く頷いてくれれば好い。お前自身がこの手記に答へたくなかつたら、別に答へを待つ事も私はしない。また答へてくれたら、私は快くそれを受ける
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