だらう。が、例へこの手記を讀んでどんなに苦しみ悶えようとも、それは直ぐに忘れてくれ。ただ、この中に書く事柄を心に堅く頷いてさへくれれば私は滿足なのだから‥‥‥。それだけで私とお前の夫婦生活は眞實の上に成り立つに違ひないのだから‥‥‥‥。
 繰り返して言ふ、飽くまでも堅く私を信じてゐてくれ。現在も、未來も、そしてまた、過去も‥‥‥‥。

 日光が燒けつくやうに硝子窓に燃えてゐた八月の三日、さう思ふと、もう今日までに四月近かくの時が過ぎ去つてゐる。[#「過ぎ去つてゐる。」は底本では「過ぎ去つてゐる」]ほんとうに思ひ巡らす月日の短かさだ。
 その日の眞晝近く、地上のすべての事物は、人も、樹木も、家屋も、電柱も、また砂にまぎれる小蟻さへも、息を途絶えさすやうな劇しい暑さに疲れ果てて、ぢつと聲をひそめて立つてゐるやうに思はれるその眞晝近く、私は理科大學研究室の窓際の机に向つて、一所懸命に蘭科植物の葉色素研究の爲めに顯微鏡を覗き込んでゐた。そよとの風もない部屋の蒸暑さ、窓の向うに見える緑の深い銀杏の並木さへ葉をうなだれてゐたが、私の感覺はただ顯微鏡の小さな孔から映つてくる鬼蘭の、青い格子縞のやうな纖維に集中されてゐた。
『水野先生、お宅からお電話です‥‥‥』と、その時、不意に私の耳元に響いた小使の聲はどんなに私の心を驚かせただらう。その電話の知らせが、やがてお前のあの險惡な急性盲腸炎を呼び起す、體の異状を私に告げたのだつた。
 お前は日頃健康な質だつた。で、その日も、その翌日も、檢温器の示すお前の體の高い熱や、またお前の訴へる腹部の痛みを單純な膓加答兒ぐらゐに思ひ過して、お前自身も私も深くは氣に留めなかつた。それがどうだつたらう、そのまた翌日の朝になつても鎭まらない病勢の、而もお前の訴へる苦惱が急に異樣に劇しくなつて來たので、驚いてT――醫師を呼んだのだ。
『急性盲膓炎です。而も、少し手遲れ氣味です‥‥‥』と、その時、若いT――醫師も醫師らしくもなく態度の冷靜さを失つて、私にかう告げたのだつた。私もその物々しさに度を失はずにはゐられなかつた。が、實際にお前の生命はもう或る危險界に迫つてゐた。
 それから、私の友達のあの水島醫學士が外科主任をしてゐる、家の近くのS――病院へ、お前の母や、私の兄の謙一と一緒にお前をあわただしく擔架で運び込むまで、もう殆ど高熱に半ば意識を失ひながら、
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