た。もう夕方が近いのだつた。眞晝の燒けつくやうな暑さが和ぐ頃だつた。意識は次第にはつきりして來た。感情の劇しい興奮も弛んで來た。昏倒した體の後疲れが何處となく感じられて來た。そのまま身動きもせずに、お前の母や兄の詞に答へようともせずに、私はぢつと僅か一時間程の間に自分が過ぎて來た複雜な心の跡を顧みてゐた。と、それがまるでかりそめの夢だつたやうな、また氣まぐれに自分の前を掠めた幻影だつたやうな氣もした。
『さうだ、夢であれ、幻影であれ‥‥‥』と私は思つた。
と、『お前の爲めに餘計な人騷ぎをした‥‥‥』と、單純に私を責めてくれてゐる兄の詞までが決して恨めしくは思へなかつた。すべてをさう思つて、ただ單純に私が昏倒したのだ――と思つてゐてくれたら、お前の手術の結果が巧く行つたと云ふ歡びをすべてが感じてゐる今、それはどんなに幸福な解釋だつたか知れないのだ。
 が、夢だつたらうか、幻影だつたらうか。私にはそれが忽ち冷かな現實の、過ぎ去つたものではあるが到底疑ふ事の出來ない現實の姿となつて、ひしひしと心の前に浮んで來たのだつた。そして、それが現實であつたと思ふと同時に、私はあの昏睡期に這入つたお前が囈言のやうに語り續けたあの詞が、實際實の事だつたらうかと、また疑はずにはゐられなかつた。
『若しそれが現實の事だつたら、そして、お前とあの貞雄君が‥‥‥』と、私は考へた。
と、私には戰慄が來た、苦悶が來た。そして、直ぐにその考へを否定してしまつた。お前が、またあの貞雄君が――と思ひ並べる事は、私には到底堪へ得ない恐ろしい想像だつた。淺ましい自分の邪推に過ぎないと否定せずにはゐられない事だつた。が、お前のあの聲がまざまざと耳に殘つてゐるのをどうしようか‥‥‥‥。
と、私の默想はまたあの廊下に軋る[#「軋る」は底本では「軌る」]運搬車のゴム輪の音に破られた。
 お前はまた死人のやうに眠つてゐた。顏は灰白色に變つて、脣は紫色にしぼんでゐた。眼は何時開かれるとも知れないやうに閉ぢられてゐた。そして、艶々しい黒髮も、ふくよかな片頬の肉も、黒み勝ちな瞳も、何時も潤んだその赤い脣も――すべてはお前の姿から忘れられてしまつたやうに思はれた。そのお前が母や看護婦達の手に依つて寢臺の上に寢かされて、靜かな、幽かな、安らかさうな息が病室の靜けさの中に聞えてくるまで、私は我を忘れてぼんやりお前を見守つてゐた。
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