縱に斷ち切るやうにずつと見通した。そして、其處に例へ一點でも感じられる暗い影があつたら見遁すまいとした。恐らくその視線は誰の眼にも陰慘な殘酷な、光を持つてゐるやうに見えたであらう。が、その光の影には引き裂かれるやうな苦悶が、悲痛が、驚きが、失望が高く波打つてゐたのだつた。今まですべてを、いやお前の心と體のすべてを自分の物と信じてゐた私の信念が、其處で粉微塵に碎かれてしまつたやうな氣がしたのだ。
『何と云ふ事だ‥‥‥』と、かう心に獨りごちた時、私の眼にはあの貞雄君の顏が消さうとしても消えぬ幻影になつてまざまざしく映つた。
『若しやお前が‥‥‥』と、さう疑ひ返した時、また私の眼にはあの貞雄君の、呉に去つてから久しく私達の家を訪れない貞雄君の顏が、私がお前のいとこ達の中で一番好きだつた、あの快活な、懷しい微笑を口元から絶やさない貞雄君の、あのあの淺黒い顏が浮んで來たのだ。
『馬鹿な、馬鹿な‥‥‥』と、私は自分の醜い、不愉快な、瞬間に卷き起つて來た疑惑を抑へようとした。實際、それは餘りに意外な、餘りに信じられない事實だつた。が、例へそれが笑ふべき、お前の單純な幻想から湧いて來たに過ぎない囈言であらうとも、『思ひ違ひ、かんにして‥‥‥』とまではつきりお前の脣から洩れた詞を、どうして私がさう生易しく否定し去る事が出來よう。その長い沈默の間、私の頭には總身の血がかあつと煮え返つてゐた。そして、その感情の波が、ともすれば自分の意識を昏迷させてしまひさうだつた。
が、私は辛くも自分を制御してゐた。
『メス‥‥‥』と、靜かな、深い眠りに落ちてしまつたお前をぢつと見詰めてゐた水島は、やがて落ち着いた聲で傍の助手に囁いた。
と、次の刹那、水島の手には冷かな銀色を反射する小刀のメスが執られてゐた。そして、水島の鋭い眼は暫くお前の腹部に注がれてゐたのだ。
助手も看護婦もお前も私も、その水島も、瞬間、化石したやうに佇んだ。そして、何時の間にかスヰツチをひねられた頭上の電氣の光に、暗い陰影を型取られ、顏の眉一つを動かさなかつた。
メスが水島の手に閃いた。助手の手にピンセツトが光つた。看護婦の手にガアゼが握られた。私の總身はさつと引き締まつた。そして、思はず瞬きして、眼を注いだ時、吹き出るやうに切り口を流れた血潮が助手の左手のガアゼを眞赤に染めてゐた。と、殆ど同時に、私の意識はすうつと拭はれる
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