でならないかはだんだんに私の頭に明かになつた。
『もう、直ぐに手術でございますから‥‥‥』と、やがてかう中年の看護婦長が知らせて來たが、私は直ぐに決心して立ち上つた。
『氣を附けるが好いぞ‥‥‥』と兄は背後からぐつと抑へつけるやうな聲で云つた。
 窓硝子を堅く鎖してしまつた手術室の中は、夏の午後のむれ返るやうな熱氣で、息が抑へられるやうだつた。が、折からの窓の西日影を薄茶色のカアテンで遮つた室内の薄暗さが、白壁と、コンクリイトの床と、エナメル塗の手術室と、銀色の外科用具と、まつ白なガアゼや脱脂綿と、酸いやうな匂ひのする消毒藥と、また其處に動いてゐる若い三人の助手や看護婦長や看護婦達の白の著附、無表情な顏――さうした感情的な何物もない、冷靜、清淨、精緻、明確その物のやうな存在物と共に、心を底冷えさせてしまふやうな空氣をあたりに漂はせてゐたのだつた。
『ほんとに大丈夫だらうね‥‥‥』と、消毒著に著換へた私が其處に這入つて手術臺に面した窓際に立つた時、メスの刄を調べてゐた水島はかちりとそれを硝子臺の上に置いて、また低い聲でかう私に耳打ちした。
『いや、決して案じないで好いよ‥‥‥』と、私は總身に一種の緊張感を感じながら答へた。と、助手の一人がその聲にひよいと聽耳を立てて、私の顏に意味ありげな視線を投げた。が、全くの處、私はその詞に確信を持つてゐたのだ。そして、もう如何とも仕難い數分間の内に迫つたお前の手術に對して、例へそれがどんなに凄慘な場面《シイン》を展開させようと、また例へその爲めにお前の生命がどう云ふ結果にならうと、私は自分の理性が、いや意志が、堅固に自分を支配して行くに違ひない事を信じてゐたのだ。
『ふむ、それで僕も安心だ‥‥‥』と、水島はその額の廣い、端嚴な理智の勝つた顏で頷きながらかう云つた。私は、お前の生命を當然左右し得る立場にゐる水島の、その落ち着き拂つた態度に一種の尊敬の念と心強さを感ぜずにはゐられなかつた。
『然うね水野君、これも前以て注意して置きたい事だが、手術を受ける患者はコロロホルムの麻醉期に這入ると、大概の場合歌を唄ひ出したり、囈言を云つたりするものだ。藤子さんはどうだか知らないが、これにも驚いちや好けないぜ‥‥‥』と、また水島は云つた。
『ふうん、そんな事があるかね‥‥‥』と、私はお前が歌を唄ひ出したりする瞬間の想像に、ひよいと幽かなをかしさ
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