下手の横好き
―將棋いろいろ―
南部修太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)住《す》み馴《な》れて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古|顏《かほ》

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(例)=1=[#「=1=」は縦中横]
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 =1=[#「=1=」は縦中横]町内の好敵手

 住《す》み馴《な》れてやがて三十年、今では僕《ぼく》も町内一二の古|顏《かほ》になつてしまつたが、麻布《あさふ》區新|龍《りう》土町といふと、うしろに歩兵第三聯|隊《たい》のモダアン兵|營《えい》を控えた戸|數《すう》六七十の一區|劃《くわく》だが、ロオマ法王|使節館《しせつくわん》、土耳古《トルコ》公|使《し》館《しくわん》、佛蘭士《フランス》大|使《し》館《くわん》武官|館《くわん》以下西|洋《よう》人の住宅《じうたく》が非常《ひぜう》に多い外になかなか特《とく》色のある住《じう》人を持つてゐる。公|爵《しやく》、男|爵《しやく》、老《ろう》政客、天文學|博士《はくし》、實業《じつげう》家など、藝苑《げいえん》では一時|的《てき》に中村時|藏《ぞう》や千|葉《は》早智《さち》子なども住《す》んでゐたし、シロタやトドロヰッチ夫人のピアノ彈奏《だんそう》を立ち聽きした事もあるし、所謂《いはゆる》見|越《こし》の松|風《ふう》の淑《しゆく》女も幾《いく》人か住むといふやうな物|靜《しづ》かな屋|敷《しき》町でもある。さういふ町内に僕《ぼく》の將棋《せうき》の好敵《こうてき》手がゐる。改《あらた》まつて紹介《せうかい》すれば、新美|術《じゆつ》院《いん》會|員《いん》、國|畫《ぐわ》會|總帥《そうすい》の梅原|龍《りう》三郎|畫伯《ぐわはく》その人だが、なアにお互《たがひ》に負けず嫌《きら》ひで相當|意《い》地つ張《は》りでもある二人。將棋《せうき》では何|糞《くそ》つと力み返《かへ》つて遠慮《えんりよ》なしに負《ま》かしたり負《ま》かされたりする事既に五六年にもならうか?
 この夏もお互《たがひ》に旅《たび》先や何かで久しく顏《かほ》を合せなかつた二人、さて新秋になると、向《むか》うは熱《あた》海で勉強《べんけう》して大に強《つよ》くなつたと自|信《しん》を持ち、僕《ぼく》は僕《ぼく》で名人|决《けつ》定|戰《せん》の觀戰記《くわんせんき》を書き棋《き》力に相當加ふるものありとうぬ惚《ぼ》れて、共に張《は》り切つてゐるのだからたまらない。僕《ぼく》先づ出|陣《ぢん》に及んで何と四|勝《せう》一|敗《はい》、すつかり得|意《い》になつてゐると、つい二三日前には口|惜《や》しさの腹《はら》癒《い》やさんずと向《むか》うから來|戰《せん》に及んで何と三|敗《はい》一|勝《せう》、物の見事に復讐《ふくしう》されてしまつた。その度毎に明|暗《あん》、悲喜《ひき》こもごも至《いた》る二人の顏《かほ》附たるやお察《さつ》しに任せる次第だ。
「何だか長閑《のどか》ね、平安朝みたい……」
 と、いつだつたか僕《ぼく》の女|房《ぼう》が言つた。
「何を?生|意《い》氣言ふな。」
 と、僕《ぼく》早速《さつそく》呶鳴《どな》りはしたものの、口|邊《へん》には微苦笑《びくせう》を抑《おさ》へきれぬ始末《しまつ》。實《じつ》は二人の對局振《たいきよくふり》を如何にも評《へう》し得てゐるのだ。とにかくあんまり強《つよ》くもなく、かと言つてまた格別《かくべつ》恥《はづ》かしいほど弱《よわ》い譯《わけ》でもなく、棋《き》風も先づ正正|堂堂《どうどう》として至極《しごく》落《お》ち着き拂《はら》つた方、正に兄たり難《かた》く弟たり難《かた》しの組《くみ》合せだ。それが大|概《がい》一|局《きよく》に一時間乃|至《し》一時間半、一二度は三時間餘にも及んだことがあるのだが、さう鋭《するど》くもなく敢へて奇《き》手|妙策《めうさく》も弄《ろう》せず靜《しづ》かに穩《おだや》[#ルビの「おだや」は底本では「お゛や」]かにもみ合つてゐる光|景《けい》たるやたしかに「櫻《さくら》かざして」の感《かん》なくもない。
「町内にどうも早《はや》お似《に》合ひの相手が見つかつたもんだなア……」
 と、對局《たいきよく》しながらフト變《へん》にをかしくなつて、そんな感慨《かんがい》を洩《も》らした事もある。だが、無|論《ろん》お互《たがひ》に胸《けう》中|密《ひそか》に「なアに己《おれ》の方が……」と思《おも》つてゐる事は、それが將棋《せうき》をたしなむ者の癖《くせ》で御多分に洩《も》れざる所。然《しか》し、三四年前に半年あまり一|緒《しよ》に萩《はぎ》原|淳《じゆん》七|段《だん》の高弟(?)となつて大《おほ》いに切|磋《さ》琢磨《たく
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