一兵卒と銃
南部修太郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)霧《きり》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|月《ぐわつ》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もともとだらし[#「だらし」に傍点]のない
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)度々《たび/\》あつた。
−−
霧《きり》の深《ふか》い六|月《ぐわつ》の夜《よる》だつた。丁度《ちやうど》N原《はら》へ出張演習《しゆつちやうえんしふ》の途上《とじやう》のことで、長《なが》い四|列《れつ》縱隊《じうたい》を作《つく》つた我我《われわれ》のA歩兵《ほへい》聯隊《れんたい》はC街道《かいだう》を北《きた》へ北《きた》へと行進《かうしん》してゐた。
風《かぜ》はなかつた。空氣《くうき》は水《みづ》のやうに重《おも》く沈《しづ》んでゐた。人家《じんか》も、燈灯《ともしび》も、畑《はたけ》も、森《もり》も、川《かは》も、丘《をか》も、そして歩《ある》いてゐる我我《われわれ》の體《からだ》も、灰《はひ》を溶《とか》したやうな夜霧《よぎり》の海《うみ》に包《つつ》まれてゐるのであつた。頭上《づじやう》には處處《しよしよ》に幽《かす》かな星影《ほしかげ》が感《かん》じられた。
「おい小泉《こいづみ》、厭《い》やに蒸《む》すぢやないか‥‥」と、私《わたし》の右隣《みぎどなり》に歩《ある》いてゐる、これも一|年《ねん》志願兵《しぐわんへい》の河野《かうの》が囁《ささや》いた。
「さうだ、全《まつた》く蒸《む》すね。惡《わる》くすると、明日《あした》は雨《あめ》だぜ‥‥」と、私《わたし》は振《ふ》り向《む》き樣《ざま》に答《こた》へた。河野《かうの》の眠《ねむ》さうな眼《め》が闇《やみ》の中《なか》にチラリと光《ひか》つた。
「うむ‥‥」と、河野《かうの》は頷《うなづ》いた。「然《しか》し、演習地《えんしふち》の雨《あめ》は閉口《へいこう》するな‥‥」と、彼《かれ》はまた疲《つか》れたやうな聲《こゑ》で云《い》つた。
「ほんとに雨《あめ》は厭《い》やだな‥‥」と、私《わたし》はシカシカする眼《め》で空《そら》を見上《みあ》げた。
夜《よる》は大分《だいぶん》更《ふ》けてゐた。「遼陽城頭《れうやうじやうとう》夜《よ》は更《ふ》けて‥‥」と、さつきまで先登《せんとう》の一|大隊《だいたい》の方《はう》で聞《きこ》えてゐた軍歌《ぐんか》の聲《こゑ》ももう途絶《とだ》えてしまつた。兵營《へいえい》から既《すで》に十|里《り》に近《ちか》い行程《かうてい》と、息詰《いきづま》るやうに蒸《む》し蒸《む》しする夜《よる》の空氣《くうき》と、眠《ねむ》たさと空腹《くうふく》とに壓《お》されて、兵士達《へいしたち》は疲《つか》れきつてゐた。誰《たれ》もが體《からだ》をぐらつかせながら、まるで出來《でき》の惡《わる》い機械人形《きかいにんぎやう》のやうな足《あし》を運《はこ》んでゐたのだつた。隊列《たいれつ》も可成《かな》り亂《みだ》れてゐた。
私《わたし》の左側《ひだりがは》にゐる中根《なかね》二|等卒《とうそつ》はもう一|時間《じかん》も前《まへ》から半分《はんぶん》口《くち》をダラリと開《あ》けて、眠《ねむ》つたまま歩《ある》いてゐた。平生《へいぜい》からお人好《ひとよ》しで、愚圖《ぐづ》で、低能《ていのう》な彼《かれ》は、もともとだらし[#「だらし」に傍点]のない男《をとこ》だつたが、今《いま》は全《まつた》く正體《しやうたい》を失《うしな》つてゐた。彼《かれ》は何度《なんど》私《わたし》の肩《かた》に倒《たふ》れかゝつたか知《し》れなかつた。そしてまた何度《なんど》私《わたし》は道《みち》の外《そと》へよろけ出《だ》さうとする彼《かれ》を抑《おさ》へてやつたか知《し》れなかつた。
「おい、寢《ね》ちやあ危《あぶな》いぞ‥‥」と、私《わたし》は度毎《たびごと》にハラハラして彼《かれ》の脊中《せなか》を叩《たた》き著《つ》けた。が、瞬間《しゆんかん》にひよいと氣《き》が附《つ》いて足元《あしもと》を堅《かた》めるだけで、また直《す》ぐにひよろつき出《だ》すのであつた。
「みんな眠《ねむ》つちやいかん‥‥」と、時時《ときどき》我我《われわれ》の分隊長《ぶんたいちやう》の高岡軍曹《たかをかぐんそう》は無理作《むりづく》りのドラ聲《ごゑ》を張《は》り上《あ》げた[#「上《あ》げた」は底本では「上《あ》けた」]。が、中根《なかね》ばかりではない、どの兵士達《へいしたち》ももうそれに耳《みみ》を假《か》すだけの氣力《きりよく》はなかつた。そして、まるで酒場《さかば》の醉《よ》ひどれのやうな兵士《へいし》の集團《しふだん》は濕《しめ》つた路上《ろじやう》に重《おも》い靴《くつ》を引《ひ》き摺《ず》りながら、革具《かはぐ》をぎゆつぎゆつ軋《きし》らせながら劍鞘《けんざや》を互《たがひ》にかち合《あは》せながら、折折《をりをり》寢言《ねごと》のやうな唸《うな》り聲《ごゑ》を立《た》てながら、まだ五六|里《り》先《さき》のN原《はら》まで歩《ある》かなければならなかつた。
「F町《まち》はまだかな‥‥」とまた河野《かうの》が振《ふ》り向《む》いて、思《おも》ひ出《だ》したやうに訊《たづ》ねた。
「もう直《ぢ》きだ。よつ程《ぽど》前《まへ》にE橋《はし》を渡《わた》つたからな‥‥」と、私《わたし》は眠《ねむ》たさを堪《こら》へながら生返事《なまへんじ》をした。
「さうか、それでもまだ先《さき》はなかなか遠《とほ》いなあ‥‥」と、河野《かうの》は右手《みぎて》の銃《じう》を重《おも》さうにずり上《あ》げながら云《い》つた。
「うん、それもさうだが、何《なに》しろ己《おれ》はもう眠《ねむ》くて閉口《へいこう》だ。此處《ここ》らでゴロリとやつちまひたいな‥‥」
「全《まつた》くだ。今《いま》一寢入《ひとねいり》させてくれりやあ命《いのち》も要《い》らないな‥‥」
「はは、かうなりやあ人間《にんげん》もみじめだ‥‥」と、私《わたし》は暗闇《くらやみ》の中《なか》で我知《われし》らず苦笑《くせう》した。
河野《かうの》も私《わたし》もそのまま口《くち》を噤《つぐ》んだ。そして、時々《ときどき》よろけて肩《かた》と肩《かた》をぶつけ合《あ》つたりしながら歩《ある》いてゐた。私《わたし》はもう氣《き》になる中根《なかね》の事《こと》なんかを考《かんが》へる隙《すき》はなかつた。自分自身《じぶんじしん》まるで地上《ちじやう》を歩《ある》いてゐるやうな氣持《きもち》はしなかつた。重《おも》い背嚢《はいなう》に締《し》め著《つ》けられる肩《かた》、銃《じう》を支《ささ》へた右手《みぎて》の指《ゆび》、足《あし》の踵《かかと》――その處處《ところどころ》にヅキヅキするやうな痛《いた》みを感《かん》じながら、それを自分《じぶん》の體《からだ》の痛《いた》みとはつきり意識《いしき》する力《ちから》さへもなかつた。そして、――寢《ね》てはならん‥‥と、一|所懸命《しよけんめい》に考《かんが》へてはゐながら、何時《いつ》の間《ま》にかトロリと瞼《まぶた》が落《お》ちて、首《くび》がガクリとなる。足《あし》がくたくたと折《を》れ曲《まが》るやうな氣《き》がする。はつと氣《き》が附《つ》くと、前《まへ》の兵士《へいし》の背嚢《はいなう》に鼻先《はなさき》がくつついてゐたりした。
「眠《ねむ》つては危險《きけん》だぞ。左手《ひだりて》の川《かは》に氣《き》を附《つ》けろ‥‥」と、暫《しばら》くすると突然《とつぜん》前《まへ》の方《はう》で小隊長《せうたいちやう》の大島少尉《おほしませうゐ》の呶鳴《どな》る聲《こゑ》が聞《きこ》えた。
私《わたし》はきよつとして眼《め》を開《ひら》いた。と、左手《ひだりて》の方《はう》に人家《じんか》の燈灯《ともしび》がぼんやり光《ひか》つてゐた――F町《まち》かな‥‥と思《おも》ひながら闇《やみ》の中《なか》を見透《みすか》すと、街道《かいだう》に沿《そ》うて流《なが》れてゐる狹《せま》い小川《をがは》の水面《みづも》がいぶし銀《ぎん》のやうに光《ひか》つてゐた。霧《きり》は何時《いつ》しか薄《うす》らいで來《き》たのか、遠《とほ》くの低《ひく》い丘陵《きうりよう》や樹木《じゆもく》の影《かげ》が鉛色《なまりいろ》の空《そら》を背《せ》にしてうつすりと見《み》えた。
「志願兵殿《しぐわんへいどの》、何時《なんじ》でありますか‥‥」と、背後《うしろ》から兵士《へいし》の一人《ひとり》が訊《たづ》ねた。
「一|時《じ》十五|分前《ふんまへ》だ‥‥」と、私《わたし》は覺束《おぼつか》ない星明《ほしあか》りに腕時計《うでどけい》をすかして見《み》ながら答《こた》へた。
が、さう答《こた》へながらも夜《よる》がそんなに更《ふ》けたかと思《おも》ふと同時《どうじ》に、私《わたし》の眠《ねむ》たさは一さう濃《こ》くなつた。そして、ふらふらしながら歩《ある》き續《つづ》けてゐる内《うち》に現實的《げんじつてき》な意識《いしき》は殆《ほとん》ど消《き》えて、變《へん》にぼやけた頭《あたま》の中《なか》に祖母《そぼ》や友達《ともだち》の顏《かほ》が浮《うか》び上《あが》つたり、三四|日前《かまへ》にK館《くわん》で見《み》た活動寫眞《くわつどうしやしん》の場面《ばめん》が走《はし》つたりした。――夢《ゆめ》かな‥‥と思《おも》ふと、木《き》の空洞《うつろ》を叩《たた》くやうな兵士達《へいしたち》の鈍《にぶ》い靴音《くつおと》が耳《みみ》に著《つ》いた。――歩《ある》いてるんだな‥‥と思《おも》ふと、何時《いつ》の間《ま》にか知《し》らない女《をんな》の笑《わら》ひ顏《がほ》が眼《め》の前《まへ》にはつきり見《み》えたりした。仕舞《しまひ》には、そのどつちがほんとの自分《じぶん》か區別《くべつ》出來《でき》なくなつた。そして、時時《ときどき》我知《わたし》らずぐらぐらとひよろけ出《だ》す自分《じぶん》の體《からだ》をどうすることも出來《でき》なかつた。
何分《なんぷん》か經《た》つた。突然《とつぜん》一人《ひとり》の兵士《へいし》が私《わたし》の體《からだ》に左《ひだり》から倒《たふ》れかかつた。私《わたし》ははつとして眼《め》を開《ひら》いた。その瞬間《しゆんかん》私《わたし》の左《ひだり》の頬《ほほ》は何《なに》かに厭《い》やと云《い》ふ程《ほど》突《つ》き上《あ》げられた。
「痛《いた》い、誰《だれ》だつ‥‥」と、私《わたし》は體《からだ》を踏《ふ》み應《こた》へながらその兵士《へいし》を突《つ》き飛《と》ばした。と、彼《かれ》は闇《やみ》の中《なか》をひよろけてまた背後《はいご》の兵士《へいし》に突《つ》き當《あた》つた、「氣《き》を附《つ》けろい‥‥」と、その兵士《へいし》が呶鳴《どな》つた。彼《かれ》はやつと我《われ》に返《かへ》つて歩《ある》き出《だ》した。
「中根《なかね》だな、相變《あひかは》らず爲樣《しやう》のない奴《やつ》だ‥‥」と、私《わたし》は銃身《じうしん》で突《つ》き上《あ》げられた左《ひだり》の頬《ほほ》を抑《おさ》へながら、忌々《いまいま》しさに舌打《したう》ちした。
が、この出來事《できごと》は私《わたし》の眠氣《ねむけ》を瞬間《しゆんかん》に覺《さ》ましてしまつた。闇《やみ》の中《なか》を見透《みすか》すと、人家《じんか》の燈灯《ともしび》はもう見《み》えなくなつてゐた。F町《まち》は夢中《むちう》で通《とほ》り過《す》ぎてしまつたのだつた。そして、變化《へんくわ》のない街道《かいだう》は相變《あいかは》らず小川《をがは》に沿《そ》うて、平《たひら》な田畑《たはた》の間《あひだ》をまつ直《す》ぐに走《はし》つてゐた。霧《きり》は殆《ほとん》ど霽《は》れ上《あが》つ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング