ハルピンの一夜
南部修太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)指揮者《コンダクタア》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時時|眞面《まとも》になる

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)フオツクス[#「フオツクス」は底本では「フオツス」]
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 頭の禿げた、うす穢いフロツク姿の老人の指揮者《コンダクタア》がひよいと立ち上つて指揮棒を振ると、何回目かの、相變らず下品な調子のフオツクス・トロツトが演奏團席《ジヤズ・バンド》の方で始まつた。落ちぶれ貴族の息子とでも云ひさうな若いロシヤ人、眼の動かし方に厭味のある、會社の書記風のイギリス人、髪の毛を妙に凝つた仕方に縮らせたアメリカ人の下士官、金儲けにぬけめのなささうな、商人らしい中年のフランス人、何れも其處の常連だと云ふ、何處となく下等な身成をした、一癖ありげな顏附の男達の十餘人と、それを彩《いろど》る酒塲《カバレエ》稼ぎのロシヤ人の賣笑婦達――壁際のテエブルのまはりに休んでゐた彼等は順順に立ち上つて、それぞれに腕を組み合せながら、強い酒の香と、煙草の烟のむつと立ち罩めた、明りの色の如何にも陰氣くさいホオルの中へ、樂の音に合せて踊の輪を作つて行く。まだお客の掴めない女達は自分達同士の組を拵へて、紅を使つた厚い化粧の毒毒しい顏に蓮葉《コケツト》な笑ひを浮べながら、腰の振方に蠱惑するやうな誇張を交へながら、踊の輪の中へ加はつて行く。氣持を變に浮き立たせる樂音の渦卷、靴の踵と床の擦れ合ふ響、踊りながらする男女の囁き、その間に時時洩れる女達の淫蕩な笑ひ聲。正面の酒賣棚の右手の壁に掛かつた六角時計を見ると、丁度一時五分だつた。私はふと思ひ出して、半分殘つてゐたグラスのウイスキイをぐつと呑み干した。
「おや、何時の間にはいつて來たんだらう?」と、その時踊の輪の方を眺め降してゐた水島君は、一息吸つた葉卷の烟をふうつと吐きながら呟いた。
「何だい?」と、とろんとして來た眼を見張りながら、私は水島君の視線の行手を追つた。
「ほら、あのでつぷり肥つたロシヤ人と組みながら、今、こつちを向つて笑つてる女があるだらう。――緑色の上着を着た……」
「うむ、ゐるゐる。――素適な美人《シヤン》ぢやないか……」頷き返しながら、私はその女の方を思はず惹きつけられるやうに見詰めた。
 それまで私もその女には氣附かずにゐた。丈の高い男の嚴丈さうな腕に、もたれるやうに腰を抱きかかへられながら、女は踵の高い赤革靴の運び輕げに踊つてゐる。房房した亞麻色の髪を羊の毛のやうに縮らせた、小柄の、然し肉附の好い女。強い線を描いた彫刻的な鼻と、きつと投げた瞳の光に何處となく智的な感じがあつた。年は二十二三なのであらう。如何にも物慣れた、形の好い恰好に踊り續けながら、時時|眞面《まとも》になる女の顏には、外の女達とは際立つて品の好い、が、同時に強く人の眼を奪ふやうな魅力のある笑ひが始終たたへられてゐた。
「あの女がね……」と、グラスを一啜りして、水島君は云つた。
「うむ……」
「この酒塲《カバレエ》での一番腕つこきなんださうだよ。」
「さうだらう。――美人《シヤン》ぢやあるし、何處か凄さうな處があるもの……」と、相槌打ちながら、私は水島君を振り返つた。
 と、水島君は何故かにやりと笑つた。
「處でね、あの女の前身は何だと思ふ?――何處か感じに變つた處があるだらう……」
「さあ、さう云へば、何だか上品な氣がするね。――やつぱり貴族か何かの……」
「さうだ。その通りなんだ。――あれがねぇ君、帝政時代の或る伯爵の娘だと聞いたら驚くだらう。」
「驚くね。――ふうん、伯爵の娘か……」と、私は思掛ない氣持で、またその女の方を見返つた。
 と、丁度その時、フオツクス[#「フオツクス」は底本では「フオツス」]・トロツトの一くさりが終つた處だつた。顏に踊のあとの疲れと興奮の色を浮べた男女達は組を解いて、それぞれの席につくのであつたが、その女は肩越しに首筋を男に抱きかかへられたまま、窓際の、酒賣棚から五番目の椅子に腰を降した。そして、テエブルの上にあつたグラスの、琥珀色の酒をぐいと呑み干すと、いきなりまた男の首筋に白い手を卷きつけて、じやれつくやうに短い接吻をその唇に與へた。女が唇を離した時、男は淫らな眼を光らせながら直ぐそのあとを追つた。そして、縮こめた女の體をぐいと自分の胸に引き寄せて、二度目の接吻を交したかと思ふと、二人は身を搖す振つて一時に笑ひさざめいた。
「驚いたなあ……」と呟きながら、笑ひすまして、私は思はず顏をそむけてしまつた。が、如何にも捨鉢氣味な二人の歡樂の姿は私の氣持を曇らせずにはゐなかつた。
「ふふん……」水島君は怒つたやうな顏に苦笑ひを浮べた。
 何故となく、私達はそのまま沈默してしまつた。
「おい、そろそろ出ようか?」と、暫くして水島君が不意に云つた。
「さうだね、出ようか。――ああ、すつかり醉つちやつたなあ……」と、私はほつと溜息づきながら、水島君を見返つた。赧らんだその顏には、血走つた、憂欝な感じの眼がとろんと据わつてゐた。
「僕もほんとに醉つたよ。」
「だいぶ飮んだからな。」
「さうだ。少し飮み過ぎた。――然し、然し、今夜はほんとに愉快だつたよ……」と、水島君は互にふと滅入りかけた氣持を引き立てるやうに、元氣作つた聲で云つた。そして、のけぞるやうにして、背後の壁の呼鈴を押した。
「あら、もうお歸り?」と、その水島君の樣子をちらと眺めた女は、あわてたやうに立ち上つて、仕切りの框に肘つきながら云つた。さつきから隣の仕切りの部屋のテエブルに一人凭て、二人の何れかを一夜のとりこ[#「とりこ」に傍点]にでもする積りだつたのか、しきりに媚態を送つてゐた、英語の巧い、二十六七の女である。「生れは?」と、訊ねたら、「キエフです……」と、答へた。何れはこれもソヴイエツト政府の支配下を遁れて來た、不幸な運命を擔つた女なのであらう。白粉で塗り隱した荒んだ肌、左の頬に拵へたわざとらしいほくろ、眉墨で縁取つた疲れたやうな眼の光、受け口のまつ赤な唇、まづい顏ではあつたが、相當の教育も受けたらしく、愛想交りにも日本の事を色色問ひ尋ねたりする女だつた。
「歸るんだよ……」と、水島君は素氣なく答へた。
「もう少しいらつしやらない?」
「厭やだ。」
 水島君は不機嫌な顏でまた打つちやるやうに云つて、そのまま横を振り向いた。女は、賣れの惡い、氣弱さうな女は諦めたやうにまたもとの椅子に歸つた。そして、寂しさうな中に、何處か反撥的な光を含んだ眼で私達を見詰めてゐた。
「すべため[#「すべため」に傍点]、お前なんかの相手になるもんか……」と、ひよいと私を振り返つて聲高な日本語で云ひながら、水島君は冷たい笑ひを浮べた。
 支那人のボオイが持つて來た傳票《チツト》に少しの酒手を加へて拂ひをすますと、水島君と私とは仕切りの部屋を廊下へと飛び出した。そして、入口で支那人の玄關番《ポオタア》から外套と帽子を受け取ると、また聞えて來た浮き浮きした舞踏曲の音色をあとに殘して、遁れるやうな氣持で酒塲《カバレエ》「アポロ」の外へ飛び出した。
「歩いて歸らうぢやないか……」と、外套の襟を立てながら、水島君は云つた。
「ああ、さうしよう……」と、私は直ぐに應じた。
 高い煉瓦塀にせばめられた暗い路次を通り拔けて、K街の大通へ出ると、街燈の鈍い光の中に客待ちしてゐた五六人の支那人の俥引達がばらばらと二人の側へたかつて來た。
「不要《プヤウ》……」
「不要《プヤウ》……」
 變にむかつ腹の立つやうな氣持でかう繰り返しながら、うるさく迫つてくる俥引達を振り向きもせずに、更け鎭まつた大通のうす暗い歩道の上を、水島君と私とは俯向き勝ちに歩き始めた。
 ハルピンの十月末、と云つても、あたりはもう索漠たる冬景色だつた。すつかり葉をふるひ落した裸のポプラ並木、からからに凍りついた歩道、明りを消し、二重窓を降して冷たい沈默を包んでゐる煉瓦や石造りの暗い家並、毎日毎夜の不安な空氣に脅かされてゐる町は、朝から曇つたままに暮れ落ちた暗澹たる夜空の下に、わけても眞夜中過ぎのその夜は、人通さへ稀に無氣味な程に鎭まり返つてゐた。處處のとろんとした薄暗い街燈の陰に腕を組みながら、眠さうな眼を見張つてゐる支那人巡警の影のやうな立姿、暗い横町の檐下に客待ちしてゐる支那人車夫のうろん臭い顏附、前部燈をきらきら光らせながら時折何處からとなく疾走してくる、何かの秘密でも載せてゐさうな自動車の影、厚い外套越しに染みこんでくる夜寒さに體を丸めながら、水島君と私とは互に默り込んだまま小刻みに足を急がせて行つた。
 勤めてゐる大連のM會社の或る仕事のために、私がハルピンへ來たのは、その一週間程前の事だつた。水島君は私の中學時代の同窓で、外國語學校露語科の出身者で、K商事會社の支店員だつたが、互に仕事の餘暇を誘ひ合せて、大正――年の秋、反過激派の勢力が衰へて過激派の勢力が次第にシベリアを南下してくると共に不安騷然たる空氣に包まれてゐるハルピンの町を、日となく夜となく彷徨ひ歩いたのであつた。淫らな見世物のある公園のバアへも行つた。歡樂と頽廢の空氣の漲つてゐる幾つかの酒塲も訪ね歩いた。支那の阿片窟へもはいつて見た。馬賊の銃殺も見物した。零落したロシヤの帝政時代の人達の悲慘な生活振も日日眼のあたりにした。強盜、殺人、喧嘩、自殺――さうした見聞にも幾度となく脅かされた。そして、翌日の夕方大連へ立つと云ふその晩は、酒塲《カバレエ》「アポロ」で互に別れを惜む氣持もあつて酒の醉を買ひながら、四時間あまりを過したのであつた。
「おい近藤君、どうしたんだ?――厭やに默りこんでしまつたぢやないか……」と、一町あまりも歩いたあと、水島君は不意に私を振り返りながら詞をかけた。
「いや、別にどうもしやしないさ……」私は漠然と答へ返した。が、醉にぐらぐらするやうな頭の中には酒塲で受けた色色な印象が、憂欝な氣持の尾を引きながら次から次へと繰り返されてゐるのであつた。
「然しね、酒塲にゐるああ云つた女の行末は、一體どうなるんだらう?」
「さあ、どうなるかな? この頃、僕はもうそんな事考へてみようともしなくなつたが、たまに一人ぐらゐが奇蹟的な幸福な餘生にはいれたにした處で、多數は悲慘な末路を遂げるんだと思ふよ。」
「さうかな。――だが、ハルピンて全く堪らない感じのする町だね。人間がまるで踏みくちやにされてしまつてる……」
「うむ、踏みくちやにされてしまつてるは好いね。――實際、こんな處で人間を人間らしく思はうとしたり、人生を眞面目に考へようとした日にやあ、氣違ひになるより外仕方がないよ。」
「はつはつは……」
「はつはつは……」
 互に振り返つて、水島君と私とは強ひられたやうな笑ひ聲を洩らし合つた。
「然し、考へてみると、すべてが馬鹿馬鹿しいよ。――より善き、より幸福な人生を建設しようとしてソヴイエツト政府が成立する。が、その革命の背後には幾千、幾萬の犧牲者があんな風にして苦しんでゐる。少くとも、彼等にとつて人生は決してより善くも、より幸福にもなつてゐやあしないんだからね。僕は革命なんてほんとに厭やだと思ふ……」
「だが、革命者の立場から云へば……」と、私は詞を挾みかけた。
「待ち給へ。――あんな犧牲は當然だと云ふんだらう……」と、水島君は強く私を遮つた。
「さうだ……」
「だから、僕は革命なんか厭やだと思ふんだよ。――一體、君はさう云ふ革命者の心持を肯定出來るのかね?」
「いや、別に肯定してゐる譯ぢやない。」
「無論、さうだらう。――それに……」と、水島君の聲は急に高くなつて來た。「根本的に云へば、革命なんかを幾度繰り返してみたつて、少數の革命者が自我《エゴ》の滿足をかひ得るだけで、人間全體は決してより善くも、より幸福にもなり得ないと僕は思ふね。――更に云ひ直せば、人間がどんなにあがいてみたつて、結局人生には
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