永久にユウトピヤは來ないと云ふ事になるんだ。」
「然し、結局さうだとは考へられても、僕は其處まで人生に絶望してしまひたくはないよ。――人間にそのユウトピヤへの夢がなかつたら、云ひ換へれば、自分達の生活をより善く、より幸福にしようとする感激がなくなつたら……」
「そりや寂しい。或は死ぬより外はあるまい……」と、水島君は吐き出すやうに云つた。「だがね、君の云ふその夢や感激つて云ふのは何だらう? 人間を胡麻化す或る操《あやつ》りの糸に過ぎないんぢやないかね……」
 私はそれには何故か答へる事が出來なかつた。水島君は直ぐに云ひ重ねた。
「でも、そんな操りの糸にでも操られ得る人はまだ幸福だよ。――夢も感激も喪つてゐながら、而も人間は容易に死ねやしない。そして、その矛盾や、寂しさを胡麻化しながら生き續けてゐる。あの酒塲《カバレエ》の女達だつて、またその女達を亨樂の對象にしてゐる男達だつて、要するに、さうした人間の仲間に過ぎないと僕は思ふよ。」
 水島君はふつと深く溜息づいて、そのまま口を噤んだ。私も何か知ら不意に索漠たる氣持を胸に感じながら、そのまま口を噤んだ。そして、二人はただ白い息を吐きながら、石のやうに凍りついた地面に四つの靴音を響かせながら、默默と歩いて行つた。何時となく酒の醉はさめかけて來た。ひしひしと迫つてくる夜寒さに、私はこごえるやうな足先の痛みを意識した。
 K街とP街との交叉點で、明日の再會を約しながら水島君と別れた時、町角の高い時計塔の針は丁度二時を指してゐた。其處から私の泊つてゐるMホテルまではまだ七八町の道程だつたが、送らうといふ水島君の詞を強ひて斷つて、薄暗い並木の蔭を私は一人俯向き勝ちに歩き始めた。
「然し、水島君も變つたなあ。――何と云ふ變り方なんだらう?」と、私はふと心の中に呟いた。
 若若しい人生の夢想家で、感激的なロマンテイシストで、而も、臆病と云ひたい程の道徳家だつた過去の水島君を思ふと、私は三年近くのハルピンの生活が同君の性格に與へた影響の深さを考へないではゐられなかつた。が、またそれ程に同君の心を荒ませ、生活を散文化させ、性格を暗い否定主義《ベツシミズム》に誘つた町の空氣を思ふと、一週間の滯在の間に受けた色色な印象、見聞のすべてが一層切實なものに感じられた。他愛なく笑ひさざめく男達の前で裸踊する痩せこけた女の顏、血烟立ててコロツと前に轉がつた馬賊の首、死骸のやうに床にのけぞり返つてゐた阿片中毒のロシヤ人の無氣味な瞳の光……。
「愚と、惡と、醜と。――何と云ふ堪らない町なんだらう?」と、呟きながら、私はP街の大通から、近道の暗い横町へ折れ曲つて、重く頭にかぶさつて來た憂欝さを遁れるやうに足を急がせた。
 商店の倉庫らしい建物の立ち並んだ、高い、じめじめした煉瓦塀の兩側から迫つた、二三間幅の道。遠くの暗闇の中に見覺えのある支那料理屋の明りが、ぽつつと一つ光つてゐる。その明りの處を右に折れてまた大通へ出ると、Mホテルなのであつたが、人通さへないその道へ足に任せて何氣なく飛び込んで、私は思はず水を浴せられたやうにぞつとした。
 私は兩手を外套のポケツトに差し込み、首を襟の中に縮こめながら、變に高く反響する自分の靴音におびえおびえ歩き續けて行つた。が、暫くすると、私は不意に背後の方に低い靴音を耳にした。振り返る氣込もなかつた。私は不意に高く動氣打たせながら、ただ歩調を早めるばかりだつた。
「あなた、あなた……」と、靴音を聞きつけてから七八間も歩いたかと思ふと、私は突然背後から呼び掛けられた。而も、その聲はアクセントこそ違つてゐたが、はつきりした日本語だつた。
「え?」私はぎよつとして振り返つた。
 立ち止まつた私の前に、暗闇の中から、影のやうにひよいと近附いて來たのは、肩掛を頭越しにかぶつた、何となくみすぼらしい身成の外國の婦人だつた。厚く白粉を刷いた顏が夜眼にもまつ白く見えた。何か知ら危險に迫られてゐるやうな不安を感じてゐた私はほつと氣持の安らぎを覺えたが、ぢつと向けられた二つの眼の光に氣が付くと、それが女であるだけに變な無氣味さを感じないではゐられなかつた。
「何か用ですか?」暫くためらつた後に、私は日本語でかう訊ねかけた。
 婦人はもじもじして默つてゐた。
「人違ひではありませんか?」私はまた云つた。
 それにも婦人は答へなかつた。が、俯向いて暫く考へこんだかと思ふと、ひよいと顏を上げて、
「わたくし、日本|詞《ことば》、よく、駄目です。――あなた、わたくし、家《いへ》、來て下さい……」と、婦人は覺束ない詞で云つた。
 突然の思掛ない誘ひの詞に驚いて、私はまじまじと婦人の顏を見詰め返した。と、何故か私の視線を遁れるやうに、婦人は直ぐに眼を伏せてしまつた。そして、灰色がかつた肩掛の端を右手の指先で苛立たしさうにまさぐつてゐるのであつた。が、外國人にしては小柄な體を肩越しにぢつと見詰めながら、その着てゐる上着のひつつこい更紗模樣にふと氣が付くと、私はそれがロシヤの婦人に違ひない事を刹那に感じた。そして、何のために呼び止めたか、どんな種類の女であるかを頭の中にす早く考へてみた時、「素人の賣笑婦」と云ふその想像が瞬間に閃き過ぎた。
「どうぞ、わたくし、家、來て下さい……」婦人は俯向いたまままた歎願するやうに繰り返した。
 瞬間の想像は私を答への詞にためらはせてしまつた。が、それと氣附いて或る落ち着きを得た私の心には、婦人に背中を向けようとする一つの感情と同時に、婦人に惹かれようとする好奇心らしい感情が明に動いてゐた。そして、其處にはなほ無氣味さに對する氣おくれの心が働いてゐたが、さめかけたとは云へまだ殘つてゐる幽かな醉心地が私をそそのかし始めたのも事實だつた。答へ澁つたまま、私は暫く身動きもせずに佇み過した。
 と、婦人はちらと私を見上げて、また眼を伏せながら、半分口の中で不意に云つた。
「一圓《アデインゑん》、宜しいです。」
 來たな――と云つたやうな、くすぐつたい氣持だつた。もう疑ふ餘地もなかつた。私は水島君から「一圓《アデインゑん》……」を繰り返しながら日本人を呼び止めると云ふ零落したロシヤ人の素人賣笑婦の話を、色色聞かされてゐた。私は眼を落して、すくんだやうに佇んでゐる女をもう一度頭越しにぢつと見詰めた。何となく痛痛しい氣持がした。が、次の刹那には、何故か私の心には臆病な道義心も、氣おくれもなくなつてしまつた。そして、欲情と云ふよりも、寧ろ不思議の世界に對してそそられた好奇心から、妙に自分を力づけるやうな努力的な氣持で私は云つた。
「行かう……」
 すると、女は彈かれたやうに私を見上げて何かを云つたが、それは何の意味か聞き取れなかつた。が、滿足らしい微笑を浮べながら、急に勢づいた樣子で今まで歩いて來た道を急ぎ足に戻り始めた。私はその左背後から、變に苦笑されるやうな氣持で無言のまま追ひ從つて行つた。半町程も戻つたかと思ふと、女は私の少しも氣附かなかつたまつ暗な、狹い路次を左手へ曲つた。そして、振り向かうともせずに、何か知らむつと塵芥《ごみ》くさい臭ひのする、右左に煉瓦塀のすれすれになるやうな道をせかせかと歩き續けて行くのだつた。
「あなた、イギリス詞《ことば》、分りますか?」と、暫くすると、女は不意に私に振り返つた。
「分る……」と、私は答へた。
「おお、あなたは英語を話せるんですか?」と、女は急に調子づいて、流暢な英語で云ひ返した。
「うむ。少しなら話せる……」と、私は何となく氣輕になつた氣持で應じた。
「あなたは何處にお住みですの?」と、女は足を弛めて私と肩すれすれになりながら、直ぐに訊ねかけた。
「M街に……」と、私は出鱈目に答へた。
「さう。――私、日本の紳士を三四人知つてゐますよ。ミスタア・木村、ミスタア・高柳、ミスタア……」と、女は小聲に微笑を含んだ聲で云つた。
「私、そんな人知らない。」
「さうですか。」
 女の英語は私のそれと比較にならない程巧だつた。そして、それは女が決して無教育者でない事を感じさせた。何れはこれも革命の不幸な犧牲者の一人に違ひない――さう思つた時、かりそめの好奇の念に驅られてゐる自分の心に痛みを感じない譯にはいかなかつた。が、異郷の見知らぬ町で、異郷の見知らぬ女との間に偶然起つて來たアバンチウルに對する強い興味は、その痛みを直ぐに覆ひ包んでしまつた。
「君の名前は?」と、私は無遠慮に訊ねかけた。
「カテリイナよ……」と、女は蓮葉《コケツト》な聲で輕く答へ返した。
 やがて少し明りのある横町へ出た。その時、女はひよいと私の方を振り返つたが、かぶつた肩掛の間に初めて照し出されたその白い顏は、瞬間何となくなまめいた印象を與へた。が、女は默りこんだまま斜に横町を渡り過ぎて、また向う側の暗い路次へはいつた。そして、十間程も歩いたかと思ふと、女は不意に立ち止まつて、私の方へ頤じやくりをしながら、内側に鈍い明りの差した家の入口の扉をそつと引きあけた。
「靜にして下さいね……」と、あとへ續いた私の耳元に女は聲をひそめながら囁いた。
 煤けた天井から、よれよれになつた電線を引いて、傘もない塵芥だらけの電燈の球が黄色い光をとろんとあたりへ投げてゐた。ほこり臭い感じのする、がらんとしたホオル。右奧へ扉のある部屋が三つ四つ續いてゐる。が、女は短いスカアトをうしろ手にたくし上げながら、直ぐ左手の壁際にそつた、もう板の角のまあるく擦りへらされた階段を、足音を怖れるやうにして昇り始めた。私もそれに續いたが、高かつた踵の、横に曲つてへつてしまつた女の黒い編上靴がおづおづと動いて行くのを眼の前にすると、私の胸には變な不快さが込み上げて來た。
「來なければよかつたなあ……」と、心の中に呟いて、横に顏を反け反けしながら、私は重くなつた足を引きずるやうに昇つて行つた。
 一階、二階、人が住んでゐるのかゐないのか、息詰まるやうな靜けさを包んだ、安普請の洋館だつた。處處に落書のある、よごれた白壁、或る窓の毀れた硝子のあとには新聞紙を貼つてあつたりした。階段は足をひそめても無氣味な軋り[#「軋り」は底本では「軌り」]聲を立て、泥や小砂利にざらついてゐた。そして、眞夜中過ぎの劇しい寒さにこごえたやうな電燈の光の薄暗さ、刹那の不快さは、何時の間にか恐怖の念に變つて來た。が、女は默りこくつたまま涯《はてし》ない階段を昇りでもするやうに、振り向きもせずに一段、一段を辿つて行くのであつた。二階、三階、それが最上層の四階目の階段を登りきつた時、女は苦しさうに吐息づいて立ち止まつた。そして、女はかぶつてゐた肩掛を靜に取りのぞけながら、小聲に云つた。
「其處よ……」
 頷いて、薄暗い明りの下ながら、私はその刹那に初めて女の顏を眞面《まとも》に見詰めた。赤茶けた、澤《つや》のない、ばさばさ髪、高い頬骨、肩掛をはづした女の顏は見違へる程痩せてゐた。そして、夜眼にはただ白くばかり見えてゐた拙い化粧の下に、そばかすが一杯に浮いてゐた。年は二十六七なのであらう。明りに照り反された、黒くたるんだ瞼の陰にありありと羞恥の色を見せながら、まぶしさうに私を見詰めた眼は深く凹んで、その奧には生活に疲れきつてゐるやうな暗い影が差してゐた。私は思はず顏をそむけた。そして、幻影消滅の苦苦しさに打たれながら、引き摺られて來た今までの自分の姿の淺ましさを感じながら、暫く身動きもせずにその場に佇んでゐた。
「さあ、おはいり下さいな……」と、女は小聲に私をうながした。そして、右手の直ぐとつつきの部屋の扉の前に歩み寄つて、ハンドルに手を掛けた。
「其處かね。――君の家は……」と、私は氣拙さをてれ隱すやうに尋ねかけた。
「ええ……」と、女は低く頷いた。
 然し、私ははいる氣込をすつかり喪つてしまつた。そして、むつつり口噤みながら、女の顏を眺めてゐた。
「まあ、どうなすつたんですか?」と、女は氣遣はしさうに云つた。
 私はふつと溜息づいた。そして、女からそむけた視線をそのままにぐるりとあたりを見まはした。遁れる事、思ひ切つて階段を駈け降りてしまふ事、
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