が込み上げて來た。
「來なければよかつたなあ……」と、心の中に呟いて、横に顏を反け反けしながら、私は重くなつた足を引きずるやうに昇つて行つた。
 一階、二階、人が住んでゐるのかゐないのか、息詰まるやうな靜けさを包んだ、安普請の洋館だつた。處處に落書のある、よごれた白壁、或る窓の毀れた硝子のあとには新聞紙を貼つてあつたりした。階段は足をひそめても無氣味な軋り[#「軋り」は底本では「軌り」]聲を立て、泥や小砂利にざらついてゐた。そして、眞夜中過ぎの劇しい寒さにこごえたやうな電燈の光の薄暗さ、刹那の不快さは、何時の間にか恐怖の念に變つて來た。が、女は默りこくつたまま涯《はてし》ない階段を昇りでもするやうに、振り向きもせずに一段、一段を辿つて行くのであつた。二階、三階、それが最上層の四階目の階段を登りきつた時、女は苦しさうに吐息づいて立ち止まつた。そして、女はかぶつてゐた肩掛を靜に取りのぞけながら、小聲に云つた。
「其處よ……」
 頷いて、薄暗い明りの下ながら、私はその刹那に初めて女の顏を眞面《まとも》に見詰めた。赤茶けた、澤《つや》のない、ばさばさ髪、高い頬骨、肩掛をはづした女の顏は見違へる
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