それより外に自分の救ひ場がない氣がした。が、私はためらつた。ためらひながら、探るやうにまた女の樣子を眺めた[#「眺めた」は底本では「跳めた」]。と、遁げられては――と云ふ不安に捉はれたらしい女は、急に眼色を鋭くした。そして、つかつかと私の側に舞ひ戻つて來たかと思ふと、ぐいと外套の袖を掴んだ。
「金だけ置いてやらう……」と、咄嗟にさうした苦苦しい決心で自分を鞭打ちながら、私は仕方なく女のあとに續いた。むかむかするやうな氣持だつた。が、扉の内へはいつて、女の指差した壁際の椅子にぐたりと腰を降した時、ほつと氣の弛みを感じた。知らない間に、私の總身は疲れきつてゐたのだつた。
 細長い部屋だつた。處處紙の破れた天井から、笠のない、ほこりだらけの電球が此處にも黄色い、乏しい光を投げてゐた。粗末な丸テエブルのまはりに、編目のほぐれたりした椅子が三つ四つ。針金に渡した、みすぼらしいカアテンの奧の方には、寢臺が備へてあるらしかつた。古びた唐草模樣の壁紙の處處はげかかつた四方の壁には、三色版の平凡な風景畫が一つ掛かつてゐるきりで、がらんとした、空氣の冷えきつた部屋の中には裝飾品らしい何物も見えなかつた。女は何か知ら落ち着きのない樣子で、テエブルを挾んで私と向ひ合せに腰を降したが、直ぐまた立ち上つた。
「寒いでせう。――火を持つて來ますわ……」と、女は小聲に囁いた。そして、左手の壁の中程にある扉の方へ歩いて行つたかと思ふと、ひよいと私を振り返りながら、そのまま隣の部屋へ姿を消してしまつた。
 この部屋きりの一人住居――そんな風に女の身を想像してゐた私は、思掛ない氣持で扉の方を眺めながら耳を澄ましたが、ごとりごとりと聞えてゐた女の靴音はやがて止んで、隣の部屋は直ぐに鎭まり返つてしまつた。私はその扉と向ひ合せの、右手の窓に眼を移した。降された、貧しい花模樣のある、茶色のカアテンが靜に搖れてゐる。十秒、二十秒、三十秒、私は部屋の中をまたぐるりと見廻した。幽かな胸騷ぎがし始めた。それを胡麻化すやうにポケツトから煙草を取り出してマツチの音を氣にしながら火をつけた。そして、一息吸つた紫烟を吐き出しながら、その烟のからんで行く電燈の方を見るともなく見上げてゐた。すると、その途端に扉の向うで幽かな人聲がした。續いて、力の無い咳音が二つ三つ聞えた。思はず息を抑へながら、私は聽耳を立てた。が、そのままあたりはひつそりとなつてしまつた。
「誰がゐるんだらうか?」と、私は心の中にこはごは呟いた。と、刹那に或る人から聞かされてゐた西洋の「美人局《ブラツク・メリイ》」の話が不意に頭の中に閃いた。私はぎくりとした。
 やがて私はそつと椅子から立ち上つた。そして、女のはいつて行つた扉の方へあるきかけた。が、ぎしりと床にきしつた自分の靴音を感じると、足はそのまますくんでしまつた。動氣が高まつて來た。神經が針のやうに尖がつて來た。私は體の動きに迷ひながら、入口の扉の方をぢつと眺めてゐた。
 が、間もなかつた。よろめくやうな足音が再び聞えたのにはつとして振り返ると、隣の部屋の扉が靜にあいて、その陰に瀬戸火鉢を抱へた女の姿が現れた。火鉢の中には今燃やしつけたばかりらしい木片がけぶつてゐた。瀬戸火鉢と西洋婦人と、それは如何にも奇妙な、同時に如何にも貧乏くさい感じを與へる對照だつた。張り切つてゐた氣持はふと弛んだ。そして、私は怪訝の眼を女の姿に投げかけた。と、女は何故か憚るやうにあわてて扉を締めて、置いた火鉢を抱へ直すとけむつぽい顏を横に曲げながら、私の側に近寄つて來た。
「たいへん、寒い……」と、てれ隱すやうに日本語を呟いて、女は硬張《こはば》つた作り笑ひをその澤《つや》のない顏に浮べた。そして、私の前に引き寄せた椅子の上に火鉢を降すと、それを挾んで私と向ひ合せに腰を降した。
 私は塵の浮いたテエブルの面に眼を落したまま、身動きもせずに默りこんでゐた。が、さうした故意とらしい女の仕草が油斷を作らせるためではないか知らと思ふと、私は警戒の氣持を弛める譯にはいかなかつた。互にこだはり合つた、ぎごちない沈默が續いた。と、やがて女はかざしてゐた手の指先で火鉢の縁をこつこつ彈き始めたが、暫くしてひよいと顏を上げながら、
「外套をおぬぎなさいな……」と、變に調子のもつれた聲で囁いた。
 それには答へずに、私は探るやうに女の顏を見詰め返したが、何時の間にかそれは化粧し直されてゐた。そして、痩せてこそゐるが、人の好きさうな、小作りな顏に、素人らしい臆病さで媚びるやうに見開かれてゐる二つの眼には[#「眼には」は底本では「眼にば」]、何の邪惡の影も見えなかつた。火ぼこりをかぶつた髪、紅の曇つた唇、上着の間からのぞいた粗い襟足、よごれのついた更紗の上着、毛のすりきれた茶羅紗のスカアト――若い異性らしい魅力を喪つ
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