りますか?」と、暫くすると、女は不意に私に振り返つた。
「分る……」と、私は答へた。
「おお、あなたは英語を話せるんですか?」と、女は急に調子づいて、流暢な英語で云ひ返した。
「うむ。少しなら話せる……」と、私は何となく氣輕になつた氣持で應じた。
「あなたは何處にお住みですの?」と、女は足を弛めて私と肩すれすれになりながら、直ぐに訊ねかけた。
「M街に……」と、私は出鱈目に答へた。
「さう。――私、日本の紳士を三四人知つてゐますよ。ミスタア・木村、ミスタア・高柳、ミスタア……」と、女は小聲に微笑を含んだ聲で云つた。
「私、そんな人知らない。」
「さうですか。」
女の英語は私のそれと比較にならない程巧だつた。そして、それは女が決して無教育者でない事を感じさせた。何れはこれも革命の不幸な犧牲者の一人に違ひない――さう思つた時、かりそめの好奇の念に驅られてゐる自分の心に痛みを感じない譯にはいかなかつた。が、異郷の見知らぬ町で、異郷の見知らぬ女との間に偶然起つて來たアバンチウルに對する強い興味は、その痛みを直ぐに覆ひ包んでしまつた。
「君の名前は?」と、私は無遠慮に訊ねかけた。
「カテリイナよ……」と、女は蓮葉《コケツト》な聲で輕く答へ返した。
やがて少し明りのある横町へ出た。その時、女はひよいと私の方を振り返つたが、かぶつた肩掛の間に初めて照し出されたその白い顏は、瞬間何となくなまめいた印象を與へた。が、女は默りこんだまま斜に横町を渡り過ぎて、また向う側の暗い路次へはいつた。そして、十間程も歩いたかと思ふと、女は不意に立ち止まつて、私の方へ頤じやくりをしながら、内側に鈍い明りの差した家の入口の扉をそつと引きあけた。
「靜にして下さいね……」と、あとへ續いた私の耳元に女は聲をひそめながら囁いた。
煤けた天井から、よれよれになつた電線を引いて、傘もない塵芥だらけの電燈の球が黄色い光をとろんとあたりへ投げてゐた。ほこり臭い感じのする、がらんとしたホオル。右奧へ扉のある部屋が三つ四つ續いてゐる。が、女は短いスカアトをうしろ手にたくし上げながら、直ぐ左手の壁際にそつた、もう板の角のまあるく擦りへらされた階段を、足音を怖れるやうにして昇り始めた。私もそれに續いたが、高かつた踵の、横に曲つてへつてしまつた女の黒い編上靴がおづおづと動いて行くのを眼の前にすると、私の胸には變な不快さが込み上げて來た。
「來なければよかつたなあ……」と、心の中に呟いて、横に顏を反け反けしながら、私は重くなつた足を引きずるやうに昇つて行つた。
一階、二階、人が住んでゐるのかゐないのか、息詰まるやうな靜けさを包んだ、安普請の洋館だつた。處處に落書のある、よごれた白壁、或る窓の毀れた硝子のあとには新聞紙を貼つてあつたりした。階段は足をひそめても無氣味な軋り[#「軋り」は底本では「軌り」]聲を立て、泥や小砂利にざらついてゐた。そして、眞夜中過ぎの劇しい寒さにこごえたやうな電燈の光の薄暗さ、刹那の不快さは、何時の間にか恐怖の念に變つて來た。が、女は默りこくつたまま涯《はてし》ない階段を昇りでもするやうに、振り向きもせずに一段、一段を辿つて行くのであつた。二階、三階、それが最上層の四階目の階段を登りきつた時、女は苦しさうに吐息づいて立ち止まつた。そして、女はかぶつてゐた肩掛を靜に取りのぞけながら、小聲に云つた。
「其處よ……」
頷いて、薄暗い明りの下ながら、私はその刹那に初めて女の顏を眞面《まとも》に見詰めた。赤茶けた、澤《つや》のない、ばさばさ髪、高い頬骨、肩掛をはづした女の顏は見違へる程痩せてゐた。そして、夜眼にはただ白くばかり見えてゐた拙い化粧の下に、そばかすが一杯に浮いてゐた。年は二十六七なのであらう。明りに照り反された、黒くたるんだ瞼の陰にありありと羞恥の色を見せながら、まぶしさうに私を見詰めた眼は深く凹んで、その奧には生活に疲れきつてゐるやうな暗い影が差してゐた。私は思はず顏をそむけた。そして、幻影消滅の苦苦しさに打たれながら、引き摺られて來た今までの自分の姿の淺ましさを感じながら、暫く身動きもせずにその場に佇んでゐた。
「さあ、おはいり下さいな……」と、女は小聲に私をうながした。そして、右手の直ぐとつつきの部屋の扉の前に歩み寄つて、ハンドルに手を掛けた。
「其處かね。――君の家は……」と、私は氣拙さをてれ隱すやうに尋ねかけた。
「ええ……」と、女は低く頷いた。
然し、私ははいる氣込をすつかり喪つてしまつた。そして、むつつり口噤みながら、女の顏を眺めてゐた。
「まあ、どうなすつたんですか?」と、女は氣遣はしさうに云つた。
私はふつと溜息づいた。そして、女からそむけた視線をそのままにぐるりとあたりを見まはした。遁れる事、思ひ切つて階段を駈け降りてしまふ事、
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