がつた馬賊の首、死骸のやうに床にのけぞり返つてゐた阿片中毒のロシヤ人の無氣味な瞳の光……。
「愚と、惡と、醜と。――何と云ふ堪らない町なんだらう?」と、呟きながら、私はP街の大通から、近道の暗い横町へ折れ曲つて、重く頭にかぶさつて來た憂欝さを遁れるやうに足を急がせた。
 商店の倉庫らしい建物の立ち並んだ、高い、じめじめした煉瓦塀の兩側から迫つた、二三間幅の道。遠くの暗闇の中に見覺えのある支那料理屋の明りが、ぽつつと一つ光つてゐる。その明りの處を右に折れてまた大通へ出ると、Mホテルなのであつたが、人通さへないその道へ足に任せて何氣なく飛び込んで、私は思はず水を浴せられたやうにぞつとした。
 私は兩手を外套のポケツトに差し込み、首を襟の中に縮こめながら、變に高く反響する自分の靴音におびえおびえ歩き續けて行つた。が、暫くすると、私は不意に背後の方に低い靴音を耳にした。振り返る氣込もなかつた。私は不意に高く動氣打たせながら、ただ歩調を早めるばかりだつた。
「あなた、あなた……」と、靴音を聞きつけてから七八間も歩いたかと思ふと、私は突然背後から呼び掛けられた。而も、その聲はアクセントこそ違つてゐたが、はつきりした日本語だつた。
「え?」私はぎよつとして振り返つた。
 立ち止まつた私の前に、暗闇の中から、影のやうにひよいと近附いて來たのは、肩掛を頭越しにかぶつた、何となくみすぼらしい身成の外國の婦人だつた。厚く白粉を刷いた顏が夜眼にもまつ白く見えた。何か知ら危險に迫られてゐるやうな不安を感じてゐた私はほつと氣持の安らぎを覺えたが、ぢつと向けられた二つの眼の光に氣が付くと、それが女であるだけに變な無氣味さを感じないではゐられなかつた。
「何か用ですか?」暫くためらつた後に、私は日本語でかう訊ねかけた。
 婦人はもじもじして默つてゐた。
「人違ひではありませんか?」私はまた云つた。
 それにも婦人は答へなかつた。が、俯向いて暫く考へこんだかと思ふと、ひよいと顏を上げて、
「わたくし、日本|詞《ことば》、よく、駄目です。――あなた、わたくし、家《いへ》、來て下さい……」と、婦人は覺束ない詞で云つた。
 突然の思掛ない誘ひの詞に驚いて、私はまじまじと婦人の顏を見詰め返した。と、何故か私の視線を遁れるやうに、婦人は直ぐに眼を伏せてしまつた。そして、灰色がかつた肩掛の端を右手の指先で苛立たしさうにまさぐつてゐるのであつた。が、外國人にしては小柄な體を肩越しにぢつと見詰めながら、その着てゐる上着のひつつこい更紗模樣にふと氣が付くと、私はそれがロシヤの婦人に違ひない事を刹那に感じた。そして、何のために呼び止めたか、どんな種類の女であるかを頭の中にす早く考へてみた時、「素人の賣笑婦」と云ふその想像が瞬間に閃き過ぎた。
「どうぞ、わたくし、家、來て下さい……」婦人は俯向いたまままた歎願するやうに繰り返した。
 瞬間の想像は私を答への詞にためらはせてしまつた。が、それと氣附いて或る落ち着きを得た私の心には、婦人に背中を向けようとする一つの感情と同時に、婦人に惹かれようとする好奇心らしい感情が明に動いてゐた。そして、其處にはなほ無氣味さに對する氣おくれの心が働いてゐたが、さめかけたとは云へまだ殘つてゐる幽かな醉心地が私をそそのかし始めたのも事實だつた。答へ澁つたまま、私は暫く身動きもせずに佇み過した。
 と、婦人はちらと私を見上げて、また眼を伏せながら、半分口の中で不意に云つた。
「一圓《アデインゑん》、宜しいです。」
 來たな――と云つたやうな、くすぐつたい氣持だつた。もう疑ふ餘地もなかつた。私は水島君から「一圓《アデインゑん》……」を繰り返しながら日本人を呼び止めると云ふ零落したロシヤ人の素人賣笑婦の話を、色色聞かされてゐた。私は眼を落して、すくんだやうに佇んでゐる女をもう一度頭越しにぢつと見詰めた。何となく痛痛しい氣持がした。が、次の刹那には、何故か私の心には臆病な道義心も、氣おくれもなくなつてしまつた。そして、欲情と云ふよりも、寧ろ不思議の世界に對してそそられた好奇心から、妙に自分を力づけるやうな努力的な氣持で私は云つた。
「行かう……」
 すると、女は彈かれたやうに私を見上げて何かを云つたが、それは何の意味か聞き取れなかつた。が、滿足らしい微笑を浮べながら、急に勢づいた樣子で今まで歩いて來た道を急ぎ足に戻り始めた。私はその左背後から、變に苦笑されるやうな氣持で無言のまま追ひ從つて行つた。半町程も戻つたかと思ふと、女は私の少しも氣附かなかつたまつ暗な、狹い路次を左手へ曲つた。そして、振り向かうともせずに、何か知らむつと塵芥《ごみ》くさい臭ひのする、右左に煉瓦塀のすれすれになるやうな道をせかせかと歩き續けて行くのだつた。
「あなた、イギリス詞《ことば》、分
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