た、痛痛しいやうな、さうした姿と、自分の行爲に明ら樣になりきれない、部屋へはいつてからのぎごちない始終の樣子とを思ひ合せると、私は今まで女の上に描いてゐた不安な想像が少し馬鹿らしくなつて來た。が、それにしても隣の部屋に感じた人の氣配と、何處となく秘密を包んでゐるらしい女に對する疑念は霽れなかつた。
「君は此處に一人で住んでるのかい?」と、私はさりげない調子で訊ねかけた。
 と、俯向いてゐた女はひよいと私を見上げたが、何となく不安らしい眼をしばだたきながら、返事にためらふ樣子だつた。
「外に誰もゐないの?」
「ええ。――私一人ですの……」と、女は底響のない聲で答へながら、俯向いた。
嘘だな――と、私は思つた。が、妙におどおどして落ちつかない女の樣子を見てゐると、強ひて問ひ詰めるのもためらはれるやうな氣持だつた。が、それだけにまた、何かある、何かある――と、さうした疑念が一そう深められずにはゐなかつた。
「ほんとに一人?」と、聲を高めながら、私はまた云つた。
「ええ……」女は曖昧に頷いた。
「でも、さつき隣の部屋で誰かと話し合つてゐたぢやないか?」
 女はぎくりと肩先を顫はせた[#「顫はせた」は底本では「顱はせた」]。が、俯向いたまま、何故か堅く唇を噛み締めてゐた。
「何か隱してゐるね?」
「いいぇ……」と、女は上眼遣ひに私を見上げた。おびえてゐるやうな視線だつた。そして、顏には血の色が消えてゐた。
 私は疑ひを深めながら、何故かだんだんに身ずくみして行くやうな女の姿を頭越しにぢつと見守つてゐた。そして、互に長い沈默を續け合つた。と、凝りついたやうに動かなかつた女は、やがて靜に顏を上げた。その眼は一杯に涙ぐんでゐた。
「私はあなたのやうな方に初めて會ひました……」と、女は不意に云つた。
「え?」
「あなたは親切な人です。」
 私は返す詞もなく女を見詰めた。
「いいえ、外の人はみんな直ぐに私の體を求めます。――あなたのやうな人はありません……」と、女は私の視線を遁れるやうに顏を反けて、聲を顫はせながら云つた。そして、暫くすると、突然机の面に身を投げ伏せて、啜り泣き始めた。
 私は浮びかかつた苦笑を苦苦しく噛み殺した。
「一體、どうしたと云ふんだ?」と、たまり兼ねてとうとう立ち上つた私は、女の側に近附きながら訊ねかけた。
 女は力なげに身を起した。
「ほんとは、ほんとは夫と、子供が二人……」と、女は涙ぐんだ眼で隣の部屋の方に眼くばせした。
「ええ?――君の……」
 女は默つて頷いた。
「どうして?――そして、君は……」と、私は息を彈ませた。
 女は答へ兼ねたやうに俯向いてしまつた。
 眞面《まとも》にびしりと何かを叩きつけられたやうな氣持だつた。私は隣の部屋の方を振り向き、女の姿を見詰めながら、不安と、困惑と、羞恥と、疑惑の中に立ち迷つてしまつた。
「何故……」と、やがて云ひかけたが、私はその先を云ひためらつてしまつた。
 女は痛痛しい視線で私を見上げた。
「夫は、夫は、肋膜炎に罹つてゐますの。――この夏の初めから……」と、女は聲を戰かせながら、絶望的な調子で云つた。
 密かな想像が其處へ動きかけてゐた。その途端だつた。で、今までのすべてをはつきりさせてしまふやうなその詞を聞かされた時、驚きに打たれると云ふよりも、騷いでゐた私の氣持はふと鎭まつた。そして、その鎭まつた氣持のままに、初めて我に返つたやうに、私は眼の前の女の姿をぢつと見詰めた。と、すべてを打ち明けて張り詰めてゐた氣持の綱が弛んだのか、女は俯向いたまままた啜り泣き始めた。
「これも革命の悲慘な犧牲者の一人に違ひない……」と、私は心に思つた。そして、その啜り泣きの聲に惹きつけられながら、默つて膝に眼を伏せた。
 長い沈默が互の間に過ぎて行つた。
「然し、御病人の樣子はどんななの?」と、私はやがて靜に訊ねかけた。
「ええ、もう長くは持ちますまい。醫者にかける事が出來ないんですから。――それに第一、私達四人は昨日から何にも食べませんの……」と、女は啜り泣きをこらへながら、途切れ途切れに答へ返した。そして、暫く口を噤んだあと、急に身を顫はせながら※[#「口+斗」、30−5]んだ。「これもみんなあのレエニンのためですよ。――あんな憎い、恐ろしい男はありません。」
 痛痛しい反抗の姿だつた。私は思はず顏を反けながら、ふつと溜息づいた。
「然し、君達はどうしてこんな……」と、私はためらひながら云つた。
「聞いて下さい。――みんなお話ししますから……」と、女は涙をぬぐつた。
 やがて女が語り出した話はかうだつた。――夫がペトログラアドの近衞騎兵聯隊の一等大尉だつた事、結婚して長女が生れると間もなく革命が起つた事、職を剥がれ、財産を沒收されて親子三人命からがらにペトログラアドを遁れた事、あら
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