梨の実
小山内薫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)六《むっ》つ
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 私がまだ六《むっ》つか七《なな》つの時分でした。
 或《ある》日、近所の天神《てんじん》さまにお祭があるので、私は乳母《ばあや》をせびって、一緒にそこへ連れて行ってもらいました。
 天神様の境内は大層《たいそう》な人出でした。飴屋《あめや》が出ています。つぼ焼屋が出ています。切傷の直《す》ぐ癒《なお》る膏薬《こうやく》を売っている店があります。見世物《みせもの》には猿芝居《さるしばい》、山雀《やまがら》の曲芸、ろくろ首、山男、地獄極楽のからくりなどという、もうこの頃ではたんと見られないものが軒を列《なら》べて出ていました。
 私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを見つけました。
 側《そば》へ寄って見ると、そこには小屋掛《こやがけ》もしなければ、日除《ひよけ》もしてないで、唯《ただ》野天《のてん》の平地《ひらち》に親子らしいお爺《じい》さんと男の子が立っていて、それが大勢の見物に取り巻かれているのです。
 私は前に大人《おとな》が大勢立っているので、よく見えません。そこで、乳母の背中におぶさりました。すると、そのお爺さんのしゃべっている事がよく聞えて来ました。
「ええ。お立ち合いの皆々様。わたくしは皆様方のお望みになる事なら、どんな事でもして御覧に入れます。大江山《おおえやま》の鬼が食べたいと仰《おっ》しゃる方があるなら、大江山の鬼を酢味噌《すみそ》にして差し上げます。足柄山《あしがらやま》の熊《くま》がお入用《いりよう》だとあれば、直《す》ぐここで足柄山の熊をお椀《わん》にして差し上げます……」
 すると見物の一人が、大きな声でこう叫《どな》りました。
「そんなら爺《じじ》い、梨の実を取って来い。」
 ところが、その時は冬で、地面の上には二三日前に降った雪が、まだ方々に白く残っているというような時でしたから、爺さんはひどく困ったような顔をしました。この冬の真最中《まっさいちゅう》に梨の実を取って来いと言われるのは、大江山の鬼の酢味噌が食べたいと言われるより、足柄山の熊のお椀が吸いたいと言われるより辛《つら》いというような顔つきをしました。
 爺さんは暫《しばら》く口の中で、何かぶつぶつ言ってるようでしたが、やがて何か考えが浮んだように、俄《にわか》にニコニコとして、こう申しました。
「ええ。畏《かしこま》りました。だが、この寒空《さむぞら》にこの土地で梨の実を手に入れる事は出来ません。併《しか》し、わたくしは今梨の実の沢山になっているところを知っています。それは」
と空を指さしまして、
「あの天国のお庭でございます。ああ、これから天国のお庭の梨の実を盗んで参りますから、どうぞお目留められて御一覧を願います。」
 爺さんはそう言いながら、側《そば》に置いてある箱から長い綱の大きな玉になったのを取り出しました。それから、その玉をほどくと、綱の一つの端《はじ》を持って、それを勢《いきおい》よく空へ投げ上げました。
 すると、投げ上げた網の上の方で鉤《かぎ》か何かに引っかかりでもしたように、もう下へ降りて来ないのです。それどころではありません。爺さんが綱の玉を段々にほごすと、綱はするするするするとだんだん空の方へ、手《た》ぐられでもするように、上がって行くのです。とうとう綱の先の方は、雲の中へ隠れて、見えなくなってしまいました。
 もうあといくらも綱が手許《てもと》に残っていなくなると、爺さんはいきなりそれで子供の体《からだ》を縛《しば》りつけました。
 そして、こう言いました。
「坊主。行って来い。俺《おれ》が行くと好《い》いのだが、俺はちと重過ぎる。ちっとの間《ま》の辛抱だ。行って来い。行って梨の実を盗んで来い。」
 すると、子供が泣きながら、こう言いました。
「お爺さん。御免よ。若《も》し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生だから勘弁してお呉れよ。」
 いくら子供がこう言っても、爺さんは聞きませんでした。そうして、唯《ただ》早くしろ早くしろと子供をせッつくばかりでした。
 子供は為方《しかた》なしに、泣く泣く空から下がっている綱を猿のように登り始めました。子供の姿は段々高くなると一緒に段々小さくなりました。とうとう雲の中に隠れてしまいました。
 みんなは口を明いて、呆《あき》れたように空の方を見ていました。
 そうすると、やがて不意に、大きな梨の実が落ちて来ました。それはそれは今までに見た事もないような大きな梨の実でした。西瓜《すいか》ぐらい大きな梨の実でした。
 すると、爺さんはニコニコしながら、それを拾って、自分の直《す》ぐ側《そば
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