わ。
 たうとうその晩は夜明かしよ。
 朝の三時頃にお星樣が見えたの。その時のみんなの喜びやうつたら無かつたわ。
 明くる朝は、又雨風がひどいのよ。いつまでそこの藝者屋にもゐられないし、それにもう塔の澤は一體に危《あぶな》くなつたから、今度は湯本《ゆもと》の福住《ふくずみ》へ逃げるんだつて言ふのよ。
 出ようと思ふと、床の間に紙入が一つ乘つてるのよ。あたし姐さんのだと思つたから、澄まして自分の懷に入れつちまつたの。すると、そこへどつかの奧さんが上つて來て、「あの、若しやこの床の間に紙入が乘つてはゐませんでしたかしら。」つて、あたしに聞くのよ。さあ、あたしどうしようかと思つちまつたわ。あたしは確に姐さんのだと思つてるけども、若し姐さんので無ければ、その方のに違ひないでせう。でもそこで自分の懷から出して聞いて見る譯にも行かないわ。自分の懷から出して見せて、若しその奧さんのだつたら、きまりが惡いでせう。だから、あたし目を白つ黒しながら、「いいえ。そんな物ありませんでしたよ。」つて云つたの。さうすると、「さうですか、どうも失禮しました。」つて、その方は直ぐ下へ降りておしまひなすつたの。
 姐さんは恐い顏をしてよ。「梅ちやん。お前さん、知つてゐて隱してゐるんぢやあるまいねえ。人間てものは、かういふ時には妙な氣を起し易《やす》いもんだから、氣を附けなくちやいけないよ。お前さん若し持つてるなら、お願ひだから出してお呉れ。」つて言ふんでせう。あたし何だか氣味が惡くなつて來て、「だつて、これは姐さんのでせう。」つて、懷《ふところ》から紙入を出して見せたの。すると姐さんは尚《なほ》と恐い顏になつてよ。「ほら御覽。持つてるぢやないか。よそ樣の物を懷へ入れるといふ事がありますか。」つて言ふの。「だつてあたし姐さんのだと思つたんですもの。」つて言ふと、「直ぐ下へ持つてつてお返しして入らつしやい、」つて言ふのよ。それから、あたし下へ持つてつて、「今よく探しましたら、戸棚のわきにありました。」つてその奧さんに渡したの。奧さんは幾度も幾度もお禮を言ふのよ。ほんとに、あたしあんなに困つた事は無かつたわ。顏がぽつぽして、汗びつしよりなの。
 それから仕度《したく》をして外へ出ると、ざあざあつて雨なの。橋を渡らうとすると、橋の板が一枚々々めくれさうにしてゐるのよ。姐さんは死んでも渡るのは厭だつていふの。
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