を懷《ふところ》に捩《ね》ぢ込んで出たの。ところが慌てて福神漬の口の方を下にしたもんだから、お露《つゆ》がお腹《なか》の中へこぼれてぐぢやぐぢやなの。氣味が惡いつたらなかつたわ。
 外へ出ると、眞暗で雨がどしや降りなの。半鐘《はんしよう》の音だの、人の騷ぐ聲だのは聞えるけど、一體どこにどの位水が出たんだか、まるで分らないのよ。兎に角向う側の春本つて藝者屋へ逃げるんだつて言ふから、あたしも附いて行くと、もうそこの家は人で一ぱいなの。鈴木のお客さんをみんなそこへ逃がしたんでせう。下駄なんか丸でどれが誰のだか分らないやうに澤山脱いであるの。
 その内に向う川岸の藝者屋が川へ落ちたつて言ふのよ。なんだか少し恐いと思つてると、水力《すゐりよく》が切れて電氣がみんな消えてしまつたの。
 蝋燭を上げますから一本宛お取りなさいつて言ふ人があるの。それからみんな手探りで一本宛貰ふのよ。あたしそつと二度手を出して二本取つてやつたわ。あたし達はそれから二階へ通されたの。貰つた蝋燭は、大根《だいこ》の輪切《わぎ》りにしてあるのを臺にして、それへ一本宛さして、みんな自分の前へ一つ宛置いてるのよ。姐さんはお守りをちやんと前へ置いて、お行儀よく坐つて兩手を合せて一生懸命に何か拜んでゐるの。
 春本の藝者はあたし達を東京の藝者だと思つたらしいの。※[#始め二重括弧、1−2−54]梅龍は時々こんな物の言ひやうをする。自分は藝者といふ者と一向關係がないやうに言ふのである。それではお孃さんぶつてゐるのかと言ふと、さうでもないのである。要するに唯何でも構はず思つた通りをどしどししやべるのである。※[#終わり二重括弧、1−2−55]だけど、聞くのも惡いと思つたんでせう。なんだかもぢもぢもぢもぢしてるのよ。「こんな所にゐては充《つま》りません。」だの何だのつて言ふの。なんだか愚痴見たいな心細い話ばかりするのよ。
 その内に向うの山が崩れたッて噂なの。
 すると何だか、轉がつて來たものがあるから、見ると、おむすびなの。一つ宛つきや呉れないのよ。それでもお腹が減つてたからおいしかつてよ。姐さんはどうしても喰べられないつて言ふから、あたし姐さんの分も喰べて上げたの。お數《かず》は懷の福神漬を出したんだけど、若菜さんは、そんなお腹ん中でこぼれた物なんか穢《きた》なくて喰べられないつて言ふの。だから、あたし一人で喰べた
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