さァ、さァ近く……はて、恐しい蚊の群じゃ」
 立って金三郎は撫川団扇《なつかわうちわ》バタバタと遣い散らし、軒の燈籠《とうろう》の火を先ず消した。次いで座敷の行燈《あんどん》の火も消した。庭の石燈籠の火のみが微かにこちらを照らすのであった。
「御免なされませ」
「はて、まだ好いではないか。もう少し話相手していてほしい」
 折も折とて京橋の東袂《ひがしたもと》近き所にて、屋島の謡曲《うたい》の声。それぞ源之丞のおとずれとお綾の心はそちらにも取られた。
 母親のお幸は、灯火の消えたので、安心して、店の方へ引下った。
 この時、忽ち隠居所の中で。
「あれ――」という悲鳴。それはお綾の口からであった。
 続いて金三郎の甲走った声で。
「曲漢《くせもの》ッ」と呼《よば》わった。
「御免下さりませ。つい暗いので部屋を取違えて」と聴き馴《な》れぬ女の声が、室の一隅で起った時に、悲鳴に驚いて店の方からお幸が手燭を点けて急いで来た。
 その光で見ると、白麻の衣《きぬ》に黒絽《くろろ》の腰法衣《こしごろも》。年の頃四十一二の比丘尼《びくに》一人。肉ゆたかに艶々《つやつや》しい顔の色。それが眼の光を険《けわ
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