丹那山の怪
江見水蔭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)東海道《とうかいどう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本陣|世古六太夫《せころくだゆう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なわめ[#「なわめ」に傍点]筋
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       一

 東海道《とうかいどう》は三島《みしま》の宿《しゅく》。本陣|世古六太夫《せころくだゆう》の離れ座敷に、今宵の宿を定めたのは、定火消《じょうびけし》御役《おやく》酒井内蔵助《さかいくらのすけ》(五千石)の家臣、織部純之進《おりべじゅんのしん》という若武士《わかざむらい》で、それは酒井家の領地巡検使という役目を初めて承わり、飛地の伊豆《いず》は田方郡《たかたごおり》の諸村を見廻りの初旅というわけで、江戸からは若党一人と中間《ちゅうげん》二人とを供に連れて来たのだが、箱根《はこね》風越《かざこし》の伊豆|相模《さがみ》の国境《くにざかい》まで来ると、早くも領分諸村の庄屋《しょうや》、村役などが、大勢出迎えて、まるで殿様扱いにして了《しま》うのであった。
「出迎えの人数は?」と純之進は本陣に寛居《くつろぎ》ながら問うた。
「ええ、お出迎えにこれまでまいりましたのは、丹那《たんな》、田代《たしろ》、軽井沢《かるいざわ》、畑《はた》、神益《かみます》、浮橋《うきばし》、長崎《ながさき》、七ヶ村の者十一名にござりまする」と丹那の庄屋が一同を代表して答えた。
「おう、左様か。拙者《せっしゃ》箱根下山の際に、ちょっと数えて見たら、十二名のように見受けたが、それでは他の旅人まで数え込んだのであろう」と純之進は格別問題にしなかった。
「さて明日からは、草深い田舎を御巡検で、宿らしい宿は今宵が当分の御泊《おとまり》納《おさ》め。どうか御ゆるりと」
 庄屋達が既に主人役に廻り、吟味の酒肴《しゅこう》を美しい飯盛女に運ばせて、歓待至らざる無しであった。
「や、拙者は酒は好まぬ。食事を取急ぐように」
 純之進は江戸を立つ時に、先輩から注意されて来ているので。うッかり甘い顔を見せると、御馳走政略に載せられて、忽ち田畑の凶作を云い立て、年貢御猶予の願いと出て来る。その他いろいろ虫の好い願いを持出すから、決して油断は出来ぬという。それを胸に貯えているので、警戒を一層引締て掛ったのだ。
 今度の巡検使は、厳しいか、緩やかなのか、領内の者が脈を引いて見るのは、最初の宿の三島という事に代々極っているのだが、純之進の態度が若きに似ず意外に厳格なので、これは一筋縄では行かぬと覚ったらしかった。
 明くる日は駕《かご》かきの人足まで皆村方から出て来て、その外お供が非常に多かった。三島|明神《みょうじん》の一の鳥居前から、右に入って、市ヶ谷《いちがや》、中原《なかはら》、中島《なかしま》、大場《だいば》と過ぎ、平井《ひらい》の里で昼食《ちゅうじき》。それから二里の峠を越して、丹那の窪地に入った時には、お供が又殖えていた。役人はこわい者、機嫌を取っておかぬと後の祟《たた》りが恐ろしいという、そうしたその時代の百姓心理を、ゆくりなく初日から示したのであった。
 丹那という土地は四方を高い山々で取囲まれていて、窪地の中央《まんなか》に水田があって、その周囲に農家がチラホラとあるに過ぎなかった。
 けれどもここの旧家|山田《やまだ》氏というのは、堂々たる邸宅を構え、白壁の長屋門、黒塗りの土蔵、遠くから望むと、さながら城廓《じょうかく》の如くに見えるのであった。
 ここにも村々から大勢出迎えていた。山田家の歓迎も一通りでなく、主人は紋服|袴穿《はかまば》きで大玄関に出迎え、直ちに書院に案内して、先ず三宝に熨斗《のし》を載せて出して、着到を祝し、それから庄屋格だけを次の間に並列さして、改めてお目通りという様な形式に囚《とら》われた挨拶《あいさつ》の後、膳部なども山中とは思われぬ珍味ぞろい。この家ではどうしても杯を手に持たせずには置かなかった。
「さぞ道中御つかれの事と存じまするで、今宵はどうかお早くお寝みを願いまする」
 主人の挨拶を幸いに純之進は漸《ようや》く奥まりたる一間に入るを得、ただ一人打くつろぐ事が出来た。

       二

 これで漸く楽になったと、純之進絹布の夜具の中に入ろうとすると、何者やらソロソロと襖《ふすま》を開いて入来《いりきた》った。見ると地方には稀《まれ》な美しい娘であった。
 これが恐ろしく小笠原流《おがさわらりゅう》で――それで何をするのかと思うと、枕頭《まくらもと》に蒔絵《まきえ》の煙草盆《たばこぼん》を置きに来たに過ぎなかった。
 純之進は無言《だま》ったまま、娘に構わずに寝て終《しま》った。娘はまめまめしく布団の裾《すそ》を叩《たた
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