死剣と生縄
江見水蔭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)磯貝竜次郎《いそがいりゅうじろう》は
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(例)云う事|為《す》る事
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(例)蛟※[#「虫+「罔」の「亡」に代えて「曷−日−勹」」、169−4]《みずち》
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一
武士の魂。大小の二刀だけは腰に差して、手には何一つ持つ間もなく、草履突掛けるもそこそこに、磯貝竜次郎《いそがいりゅうじろう》は裏庭へと立出《たちいで》た。
「如何《いか》ような事が有ろうとも、今日こそは思い切って出立致そう」
武者修行としても一種特別の願望を以て江戸を出たので有った。疾《と》くに目的を達して今頃は江戸に帰り、喜ぶ恩師の顔を見て、一家相伝の極意秘伝を停滞《とどこおり》なく受けていなければ成らぬのが、意外な支障《さわり》に引掛《ひきかか》って、三月余りを殆ど囚虜《とらわれ》の身に均《ひと》しく過ごしたのであった。
常陸《ひたち》の国、河内郡《こうちごおり》、阿波《あんば》村の大杉《おおすぎ》明神の近くに、恐しい妖魔が住んでいるので有った。それに竜次郎は捕って、水鳥が霞網に搦《からま》ったも同然、如何《いかん》とも仕難くなったのであった。一と夏を其妖魔の家に心成らずも日を過して、今朝の秋とは成ったので有った。
大杉明神は常陸坊海尊《ひたちぼうかいそん》を祀るともいう。俗に天狗《てんぐ》の荒神様。其附近に名代の魔者がいた。生縄《いきなわ》のお鉄《てつ》という女侠客がそれなのだ。
素《もと》より田舎の事とて泥臭いのは勿論《もちろん》だが、兎《と》に角常陸から下総《しもうさ》、利根川《とねがわ》を股に掛けての縄張りで、乾漢《こぶん》も掛価無しの千の数は揃うので有った。お鉄の亭主の火渡《ひわた》り甚右衛門《じんえもん》というのが、お上から朱房の十手に捕縄を預った御用聞きで、是れが二足の草鞋《わらじ》を穿いていた。飯岡《いいおか》の助五郎《すけごろう》とは兄弟分で有った。
その火渡り甚右衛門が病死しても、後家のお鉄が男まさりで、まるで女の御用聞きも同然だという処から、未だ朱房の十手を預っているかのように人は忌み恐れていた。
「生縄のお鉄は男の捕物に掛けては天下一で、あれに捕ったら往生だ。罪の有る無しは話には成らぬ。世にも不思議な拷問で、もう五六人は殺されたろう。阿波の高市《たかまち》に来た旅役者の嵐雛丸《あらしひなまる》も殺された。越後《えちご》の縮売《ちぢみうり》の若い者も殺された。それから京《きょう》の旅画師に小田原《おだわら》の渡り大工。浮島《うきしま》の真菰大尽《まこもだいじん》の次男坊も引懸ったが、どれも三月とは持たなかった。あれが世にいう悪女の深情けか。まさか切支丹《きりしたん》破天連《ばてれん》でも有るまいが、あの眼で一寸睨まれたら、もう体が痺れて如何《どう》する事も出来ないのだそうな」
斯《こ》うした噂《うわさ》は至る処に立っていた。
とは知らぬ磯貝竜次郎、武者修行に出て利根の夜船に乗った時に、江戸帰りのお鉄と一緒で有った。年齢《とし》は既に四十近く、姥桜も散り過ぎた大年増。重量は二十貫の上もあろう程の肥満した体。色は浅黒く、髪の毛には波を打ったような癖が目立って、若《しか》も生端《はえぎわ》薄く、それを無造作に何時《いつ》も櫛巻きにしていた。鼻は低く、口は大きく、腮《あご》は二重に見えるので有ったが、如何にも其眼元に愛嬌が溢《あふ》れていた。然《そ》うして云う事|為《す》る事、如才無く、総てがきびきびとして気が利いていた。若い時には斯うした風のが、却《かえ》って男の心を動かしたかも知れぬのだ。
「大杉様へ御参詣なら、是非手前共へお立ち寄りを」
押砂河岸《おしすながし》で夜船を上って、阿波村に行く途中の蘆原《あしはら》で、急に竜次郎が腹痛を覚えた時に、お鉄は宛如《まるで》子供でも扱うようにして、軽々と背中に負い、半里足らずの道を担いで吾家に帰り、それから親身も及ばぬ介抱をして呉《く》れたまでは好かったが、其儘《そのまま》一歩も外に踏出させぬには、此上も無い迷惑なので有った。
竜次郎の腹痛は直ぐ治ったが、折角元の健康に復したのも、二日か三日で又衰え始めて、されば、何処が不良という事無しに、唯ぶらぶらの病に均しく、腑抜けのように日を暮らしていた。月代毛《さかやき》も延びた。顔色も蒼白く成った。眼の窪んだのが自分ながら驚かれるので有った。正しく妖魔の囚虜《とりこ》と成ったので有った。
今日こそはと大勇猛心を出して、お鉄の不在を幸いに、裏庭から崖を降りて稲田伝い
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