に福田《ふくだ》村の方へ出ようと考えたので有った。
二
良心の呵責《かしゃく》は一歩毎に強く加わるので有った。年上で、身分|賤《いや》しく、格別美しくも無い一婦人の為に、次男ながらも旗本五百石の家に産まれた天下の直参筋、剣道には稀有《けう》の腕前、是|天禀《てんぴん》なりとの評判を講武所《こうぶしょ》中に轟かした磯貝竜次郎が、まるで掌の内に円め込められて三月の間は玩具《おもちゃ》の如く扱われて了《しま》ったのだ。
講武所に学びては、主として今堀摂津守《いまぼりせっつのかみ》の指南を受けていたが、其他に、麻布《あざぶ》古川端《ふるかわばた》に浪居して天心独名流《てんしんどくめいりゅう》から更に一派を開きたる秋岡陣風斎《あきおかじんぷうさい》に愛され、一師一弟の別格稽古を受け、八方巻雲《はっぽうまきぐも》の剣法の極意を相続する位地にまで進んだので有った。
「その伝授の前に、必ずそれは武者修行に出て、一度は廻国して来なければ相成らぬ。と云った処で、普通《ただ》の道場破りをして来いと申すのでは無い。先ず香取《かとり》鹿島《かしま》及び息栖《いきす》の三社、それに流山《ながれやま》在の諏訪《すわ》の宮、常陸は阿波村の大杉明神、立木村《たつきむら》の蛟※[#「虫+「罔」の「亡」に代えて「曷−日−勹」」、169−4]《みずち》神社、それ等の神々に詣で、身も心も二つながら清めて、霊剣一通り振り納め、全く邪心を去って来れば好い。其他の神詣では追々の事として苦しゅう無い」
秋岡陣風斎から一師一弟、八方巻雲の剣法を授かる為に、竜次郎の廻国は始ったので有った。処が大杉明神で停滞したので有った。それは併し如何《どう》考えても不思議というより他は無かった。
押砂河岸に上る前に、木下《きおろし》河岸で朝早く売りに来た弁当を買った。それの刻み鯣《するめ》に中《あた》って腹痛を感じたとのみは思えなかった。其前に船中の人いきれに、喉の乾きを覚えた時、お鉄が呉れた湯冷しというに、何やら異臭が有った。邪推して見れば毒薬でも服《の》まされたか知れなかった。
それからお鉄の家に引取られてというものは、血が濁り、筋が緩み、気力が衰えて、如何《どう》にも斯うにも成らなかった。痴呆の如くに成るのみで有った。
お鉄の家は代々の目明しで有った。祖父が別して名高かった。火渡り甚右衛門は養子なので有った。それで捕物に就いての知識は却《かえ》ってお鉄の方が委《くわ》しかった。
「捕縄《とりなわ》の掛け方なら、私に及ぶ者は常陸下総|上総《かずさ》にも有りますまい」
お鉄の自慢はそれだけの実力が有り余っていた。女ながらも掛縄、投縄、引縄、釣縄、抜縄、何でもそれは熟練していた。捕縄の掛け方に就いても、雁字搦《がんじがら》み、亀甲繋《きっこうつな》ぎ、松葉締め、轆轤巻《ろくろまき》、高手、小手、片手上げ、逆結び、有らゆる掛け方に通じていた。
総角《あげまき》、十文字《じゅうもんじ》、菱《ひし》、蟹《かに》、鱗《うろこ》、それにも真行草《しんぎょうそう》の三通り宛《ずつ》有った。流儀々々の細説は、写本に成って家に伝わっていた。
竜次郎は其捕縄に就いても興味を持ち、退屈凌ぎに写本は残らず読んで、それから益々研究心を起こして、実地をお鉄に就いて学んだので有った。
「これでも一子相伝ですが、貴郎《あなた》にですから伝授しましょう。併し昼間はどんな事が有っても授けられぬと、ちゃんと禁じて有りますから、真夜中に教えて上げましょう」
教える為にはお鉄が捕縄を捌《さば》いて、竜次郎を縛りもした。又お鉄が竜次郎に縛られもした。
「縄抜けの法は泥棒ばかりでは有りません。御武家でも覚えて置いて好いと思います。敵に俘虜《とりこ》に成った時に、役に立ちますからね」
肥満したお鉄の豊かな肉に喰入る本縄の緊縛も、身を悶《もだ》えさせて、肩に風を切り、下腹に波を打たせている間に、見事に抜けて自由の体に成るので有った。竜次郎は真底から驚嘆せずにはいられなかった。
漸うしている間に竜次郎は、始終無形の縄に縛られて、緊《きつ》く繋がれたような気持がして、一歩も外へ踏み出せぬので有った。又お鉄が殆《ほとん》ど附切りで、近き大杉明神へも参詣させぬ。お鉄が無拠《よんどころなく》外出する時には、乾漢《こぶん》をして見張らせるので有った。
其代り痒《かゆ》い処へ手の届かずという事なく、有らゆる優待はするので有った。
「生縄一家の用心棒、磯貝先生は、話に今も遺《のこ》っている笹川繁蔵《ささがわしげぞう》の処の平手酒造《ひらてみき》よりも豪《えら》い方だ」
持上げられるだけ持上げられても、其実|入牢《じゅろう》させられたも同様で有った。
「斯うしていては、秋岡先生に相済まぬ」
竜次郎は全部魂が腐敗
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