し切ってもいなかった。良心の呵責に耐え切れず、漸く見出した隙間を見て、お鉄の家の裏庭から、崕《がけ》を雑草に縋《すが》りながら、谷地の稲田の畦路《あぜみち》にと降りた。
やれ嬉しやと思う間もなく、パッと上から罠《わな》が落ちた。左脇の下から右の肩上に掛ったと思うと、キュッと締められた。と早や一気に釣上げられた。身は宙にぶら下った。
「先生、何んだって這《こ》んな真似をなさるの。どんな事が有っても逃がしませんよ」
上には憤怒に上釣《かみづ》ったお鉄の声がガンガンと響いた。
三
僅かの差で帰って来たお鉄が早速の投縄で、竜次郎の脱走を留《と》めたので有った。高手小手に縛り上げて、裏の中二階に転がし放しにして、其|傍《そば》でお鉄はやけからの茶碗酒を呷《あお》りながら、さも口惜しそうに口を切った。
「何んだって先生、逃げ掛ったのです。一寸私が油断してる間《うち》に……それも他の用で私は出たのでは有りませんよ。須賀津《すがつ》の溜《たまり》から胡麻鰻《ごまうなぎ》を取って来て、丸煮で先生に差上げて、少しでも根気を附けて上げましょうと、それは私の一心からで、人手にも掛けず選《よ》りに行ったのですよ。それをまあ何事です」
お鉄は涙含《なみだぐ》んでさえいるので有った。
竜次郎は斯うして縛り放しにされている意気地無さ。我と吾身に愛想の尽きるので有った。之も皆師に叛《そむ》いた罰だ。堕落した為だ。然《そ》ういう風に悔いながら、
「姉御、どうか許して呉れ。如何《どう》しても一度江戸へ行って来ねば相成らぬで」
「草深い田舎に飽いてで御座んすか。いや、私という者に愛想が尽きて、お逃げ出しで御座んすかよ」
「決して左様な訳ではない。行って見て、安心したら直ぐ帰る。実は毎夜の夢見、どうも心配で心配で耐え難いで」
「夢見?」
「夢は五臓のつかれとやら。そう云って了えばそれ迄だが、余りに一つ夢を何度も何度も繰返すので気に懸って相成らぬ。それは恩師秋岡陣風斎先生が瀕死の重態。されば先生には誰一人身寄りが無い。看病する者が居らぬ筈。孤独の御生活《おくらし》、殊に偏屈という御性癖で、弟子というても斯くいう竜次郎より他には持たれぬのだ。それが一師一弟の特別の稽古、その八方巻雲の秘伝をお授け下さるという事は、いつぞや姉御にも話して置いた」
「それは確かに聴きました」
「万一先生、御他界の間に合わぬ時は、折角の秘伝は消滅して、残念ながら此世には遺《のこ》り申さぬ。それが如何《いか》にも惜しゅうて成らぬ。や、それは又それとしても、義理人情の薄う成り過ぎた此頃、恩師を唯一人のたれ死も同然にさせたと有っては、磯貝竜次郎の一分が立たぬ。師弟の間柄が宛如《さながら》商売取引のように成ったのを、悉く不満に存じ居る折柄、是非先生の御看病を……」
「先生は本統に御病気なのですかえ」
「それは分らぬ。併し毎夜の如く続けて夢に見る。如何《どう》も気に成って耐え難い。どうか姉御、一度江戸へ遣《や》って貰いたい。いや江戸へ帰らして呉れとは云わぬ。行かして呉れ。先生御無事ならば、直様《すぐさま》此方《こちら》へ帰って来る。もし正夢で御病気ならば、御看病申上げて、其後は屹《きっ》と帰る。金打《きんちょう》致して誓い申す」
真心は竜次郎の眼に涙と成って浮ぶので有った。これには生縄お鉄も感動せずにはいられなかった。人間の至誠が完全に表現されるのは、必ずしも多弁を要しないので有った。
「そんな事なら何も私にだんまりで、裏から逃げ出さなくっても好いでは有りませんか。私だって普通《ただ》の女では無いんですからね。筋路さえ通った事なら、機嫌|克《よ》く御見送りしますよ」と意外に理解が早いので有った。然うして急いで竜次郎の縛《いまし》めを解いて、縄の喰入った痕を、血の通うように撫《さす》ってやるのであった。
「それは幾重にも詫びるが、今朝は別して師匠の事が気に掛って何んだか一刻半刻を争うように思われたので……一足違いで師の臨終に逢えないような気がしたので、それで姉御の帰りをも待たず、飛出したような次第。どうか悪く思わないで……」
と竜次郎は手足を遠慮がちに伸ばすので有った。
「何、私は、話さえ分れば後はさっぱりです。何んとも思いはしませんが、併し先生、本当に帰って来て下さいましょうね」
「必ず帰る」
「此間の夜も。しみじみ云いました通り、私が以前に水戸《みと》の藤田《ふじた》先生の御存命中に承わった処では、今に世の中がどんでん返しをして、吃驚《びっくり》する程変ってくる。だから武家も、別して旗本衆などは、余程考えていなければ成らないので、大概なら剣道とか槍術とか、そんな方は見切りをつけて、砲術を学んだ方が為に成る。それには一度毛唐人の国へ行って来た方が好いとのお話……私は、実は貴
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