べど叩けど答えも無かった。其他三四軒を訪れたが、悉《ことごと》く断わられた。
 途方に暮れて竜次郎と小虎とは、再び元の渡し口まで帰った。もう夜に入《い》って宵月が出て居った。
「皆此身の不覚からだ。此分では江戸へ帰ったとて、よしや師が健在でも、面目無さに顔が合されぬ。思案を之れは仕替えねば相成らぬで、さあ如何《どう》か小虎。お前は拙者に構わず、先へ行きやれ」
「そんな事が出来ますものか」
 小虎の声は真剣で有った。
「失礼ながら私は、腹巻の中に、少しは貯えが御座います。布川の町まで行けば、古着屋も御座りましょう。夜を幸い、さあ一息」
 竜次郎の手を引いて、堀割端を行こうとした。
「まあ、お待ちよ」
 蘆の間に女の声がした。それは生縄のお鉄なので有った。

       九

「着物を取上げたのは私です。腰の物から何から残らず私が隠したのよ」
 お鉄は竜次郎と小虎とを手荒に引放して、其中間に立って怒吼《どな》り付けた。
 小虎は吃驚《びっくり》して顫《ふる》え出した。竜次郎はお鉄と知れては、口を利く事が出来なかった。蝦蟇《ひきがえる》に見込まれた蚊も同然で有った。
「這《こ》んな事が有るだろうと思って、お前さんが身支度をしている間《うち》に乾漢《こぶん》を走らして道筋々々へ、先廻りして、身内の者に網を張らして置いたのよ。然うして後から私も化け込んで、見え隠れに附けているとも知らず、此女《こいつ》とお前さんは道連れに成って仲好くして、縺れぬばかりに田圃路を歩きなすった。案山子《かがし》まで見て嫉妬《や》いていたじゃあないか」
 お鉄の語る処では、此所の渡場を見張っていたのは、古い乾漢の阿法陀羅権次《あほだらごんじ》。博徒が本職の偽坊主で有った。
 立木台下の農家が悉く二人に無情なのも、皆お鉄の声が掛ったからと分った。
「さあ、私の威勢は這《こ》んなものですよ。それだのにお前さんは、這んなめそっ子[#「めそっ子」に傍点]と道行をするんですか。濡れたん坊と裸では、余《あんま》り粋《いき》じゃあ有りませんぜ」
 盲目的、病的嫉妬に燃える一心には、理も情も通らぬので有った。
「いや、決して二人は、仲の好いの悪いのと、左様な間では御座らぬ」と竜次郎は弁解に掛った。
「おかみさん、どうか悪く思わないで下さいまし」と小虎からも言解《いいと》きに掛った。
「えっ、お玉杓子《たまじゃくし》が何を云うんだい。私という女ながらも大親分に、じかに口が利けるもんか。黙って引込んでいやあがれ」と、お鉄は突如《いきなり》小虎を突飛ばした。
 転んだ小虎は古杭で、横腹を打って、顛倒《てんとう》した。それをお鉄は執念深くも、足蹴《あしげ》にして、痰唾《たんつば》まで吹掛けた。竜次郎はつくづく此お鉄の無智な圧迫に耐えられなく成った。この女と一緒にいては、迚《とて》も一生成功は見られぬと考えた。けれども今更|如何《どう》する事も出来なかった。
「や、もう江戸行は止《よ》す。是《これ》から阿波へ帰る。其上で身の潔白を立てよう。兎に角、衣類を」と云った。
 お鉄が喜んだ事は一通りでなかった。
「これ此通り。ちゃんと私が持っている。さあ風邪を引くと悪い。早くお着きなさいよ」
 子供の湯上りに母親が衣類を着せるようにして着せ掛った。竜次郎が小刀を、下帯から抜いて、路傍《みちばた》に置いたのは勿論で有った。
 それを倒れていた小虎が密《そっ》と取った。抜くや、突然《いきなり》、お鉄の横腹へ突立てた。お鉄の悲鳴は唯一声であった。
「女の意地ですわ。私だって竹割り小虎。さあ旦那様、江戸までお供致しましょう」
 血刀をお鉄の袖で拭いて、元の鞘に納めて返すので有った。
 迚《とて》も一通りや二通りで、解決の着くべき問題では無かったのを、小虎の為に簡単に捌《さば》かれたので有った。竜次郎は唯只運命の奇なるに驚くのみで有った。
       *      *      *
 明治中期まで警視庁第一の捕物老刑事として名の高かった○○○○○氏こそは、この磯貝竜次郎の後身なので有った。其前の妻女は正しく小虎で有ったが、それは明治初年に病死したという。竜次郎が陣風斎から、八方巻雲の秘伝を授かったか如何《どうか》か。それに就ては遺憾ながら伝わらぬ。



底本:「怪奇・伝奇時代小説選集1 水鬼 他9編」春陽文庫、春陽堂書店
   1999(平成11)年10月20日第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部」
   1925(大正14)年11月
入力:岡山勝美
校正:門田裕志
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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