僧の眉間に白毫《びゃくごう》を刻する如く突立った。
「わっ」と一声。後ざまに打倒れて、姿は此方から見えなく成った。何んとも云えぬ好い気味で有った。
 竜次郎は手早く衣類を脱いだ。手甲、脚半とまでは届かなかった。小刀を下帯に後差しにして、新利根の堀割へと飛込んだ。
 五間六間は何んでもなかったが、十間十四五間と進むに連れて、思ったよりも藻の繁りは多かった。手に搦み、足に搦み、それは恐るべき魔力の有るのに驚かされた。藻にも菱にも霊が有って、執念深く仇《あだ》をするものとしか取れなかった。裸体でさえ是《これ》だから、衣類を着ている小虎は、嘸《さぞ》泳ぎ難いだろうと思い遣《や》った。
 字の如く藻掻き藻掻き又一二間は進んだけれど、もう如何《どう》しても前に出られなくなった。恰《あたか》も本縄の雁字搦《がんじがらみ》に掛ったように感じられた。
「おう、然うだっ」
 竜次郎は心着いた。生縄のお鉄から教わった縄抜け縄切りの法を、此所《ここ》に早速応用するのだ。それが一番の上策だと考えた。
 小刀を水中で抜いた。泳ぎながら、片手切りに水草を切払った。忽ち活路は開けたのであった。
 苦心を重ねて人喰い藻と闘いつつ、漸く小虎の傍《そば》まで行った。
「おう、旦那様っ」
 小虎此時は早や疲労し切っていた。けれども水練知らぬ者のように、突如《いきなり》救いの人へ抱きつくような危険はしなかった。

       八

 小虎の全身に搦んでいる種々《くさぐさ》の藻の種類。それを切払って水妖《すいよう》の囚われから救おうとする竜次郎の苦心。それは実際一通りでは無かった。
 白分も片手で泳がなければならぬ。片手に待つ小刀も水中の事とて、思う様には遣えぬのだ。注意を少しでも怠ると、小虎の身体に傷を付けるかも知れないのだ。指一本斬り落したからとて、それは大変なので有った。
「焦慮《あせ》ってはならぬ。少しの間の辛抱だ」
 眠れる竜の鼻の先、珠を取った海士《あま》よりも、危い芸をつづけた竜次郎は、漸く水草を切払って、小虎を自由の身たらしめた。
「命の親。この御恩は忘れません」と小虎は真底から感謝した。
「それ処か。少しも早く上陸を」と竜次郎は先に立って、再び邪魔な水草を切払いながら、元の岸へ泳ぎ戻るので有った。前にも既に大分切ったので、今度は大変に楽で有った。
 二人は矢張り元の岸へ戻った。竜次郎は着衣類や大の腰の物を残したからだ。小虎は又先へ行くには、人喰い藻が切開いて無いのみならず、自分ばかり先へ行くのは、恩人に対して悪いからで有った。
 岸に上って二人はほっとした。
 竜次郎は不図《ふと》小虎の方を見て吃驚《びっくり》した。女の手足の数ヶ所から、黒血をだくだくと吹出しているのだ。扨《さて》は小刀の切先が当って傷を付けたかと思ったのだ。併しそれは蛭《ひる》が吸いついているのと知れて、安心した。
「さあ、もう、斯《こ》うした難癖の附いた処は渡るまい。廻り路はしても、他から」と竜次郎は云った。
「それが宜しゅう御座います」と小虎は然う云いながら、濡れた衣物《きもの》を絞るので有った。
「おやっ」
 竜次郎は叫びを立てずにはいられなかった。その訳で、脱ぎ捨てた半合羽から、袷、襦袢《じゅばん》から、帯まで無く成っていた。それのみならず残して置いた大刀や、懐中物から手拭鼻紙まで、紛失していた。
「何者が、持去ったかっ」
 磯貝竜次郎は裸にされて了ったのだ。小刀だけは残っても武士の魂たる大刀をまで、何者にか奪われたのだ。
「まあ、私をお助け下さる為に、旦那様に此御難儀を掛けまして、申訳が御座りませぬ」と小虎まで蒼く成った。
「藻切りに心奪われて、此方《こちら》には気が着かなんだが、何時《いつ》の間に、何者が」と竜次郎憤激しても、如何《どう》しようも無いので有った。
 遠寺の鐘さえ鳴り出した。一瞬《ひとまたた》き毎に四辺《あたり》は暗く成るのであった。冷たい風は二人の肌に迫るので有った。
「兎に角、人家のある方へ廻って、其方《そなた》の濡れた着物も乾そう、拙者の紛失物も人手を加えて探して見よう。誰か盗人の姿を見た者が有るかも知れぬで」と竜次郎は先に、立木台下の方へと蘆原を進んだ。小虎も後から附いて来た。
 手甲脚半の他は裸の竜次郎、下帯に小刀をさした風は、醜態此上も有らぬ。奇禍とは云いながら、何んという有様。皆|是《これ》剣道の師の命令に叛《そむ》き、女侠客の為に抑留されて、心ならずも堕落していた身から出た錆《さび》。斯う成るのも自業自得と、悔悟の念が犇々と迫った。
 台下の農家、取着きのに先ず入ったが、夜に入っては旅の人に取合わぬ此土地の淀《おきて》と云い張って、閾《しきい》から内へは入れなかった。事情を訴えても聴くので無かった。
 次の一軒、其所は大急ぎで戸を締めて、呼
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