た。太夫身支度の間今一|囃子《はやし》、そんな景気を附けるでもなく、唯浴衣の裾を端折っただけで有った。赤の色褪めた唐縮緬《とうちりめん》の腰巻が、新堀割の濁った水の色や、小堤下の泥の色に反映して、意外に美しく引立って見えるので有った。
 忽ち手繰り船の親杭《おやぐい》の上に攀《よ》じ登った。
「気を着けないと危いよ」と、下から竜次郎は声を掛けた。
「大丈夫で御座いますよ」と小虎は云いつつ颯《さ》と紺蛇の目の雨傘を開いた。それと同時に腰巻の唐縮緬から、血の飛沫《しぶき》が八方へ散ったと見たのは、今まで藤蔓に止まっていた赤蜻蛉《あかとんぼ》が、驚いて逃げたので有った。
 名は新利根でも、五十間の堀割。手繰り渡しの藤蔓を綱渡りの足取りで越すので有った。それは実に見事なもので、大道を普通《なみ》の人が歩くのと異らなかった。
 折柄の夕陽《せきよう》は横斜《よこはす》に小虎の半身を赤々と照らした。それが流れの鈍い水の面《おも》にも写るので有った。上にも小虎、下にも小虎、一人が二人に割れて見えた。垢染みた浴衣の扮装《いでたち》も、斯うすると光輝を放って見えるので有った。況《ま》してや舞台好みの文金高島田、化粧をした顔の美艶《びえん》、竜次郎は恍惚《こうこつ》たらざるを得なかった。もう途中で落ちはせぬかという懸念は無く成ったが、あの儘自分だけで渡り終って、先を急ぐとて独《ひとり》で行って了いはせぬか。それが気遣われるばかりで有った。
 やがて其半途まで綱渡りを進めた。両岸からは如何《いか》に高く藤蔓を張っても、其中心に当る点は、自然々々にたるみが出来て水面近く垂れているので有った。それに人の身の重量《おもみ》が加わったので、危く水に漬りそうにまで成った。それすら小虎は巧みに越した。もう其難場は越したので、一息|吐《つ》くかと思う頃。
「あっ」
 小虎の鋭い叫びと殆ど同時に、巌畳《がんじょう》に綯《な》ってある藤蔓縄が、ぷつりと断《き》れた。小虎は水音凄まじく新利根の堀割に落ちた。竜次郎の驚きは絶頂に達した。

       七

「巫山戯《ふざけ》た真似をしやあがる。俺が渡さねえようにして置いたのに、船を取りに綱渡りで来やあがるなんて畜生、醜態《ざま》あ見やあがれ」
 向河岸の楊柳の間に、何時《いつ》の間にやら以前《もと》の悪僧が再現して手に鰻裂《うなぎさき》の小庖丁を持っていた
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