月世界跋渉記
江見水蔭

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)悉《ことごと》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)空中飛行船|翔鷲号《しょうしゅうごう》は

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符三つ、35−上−18]
−−

    引力に因り月世界に墜落。探検者の気絶

「どうしよう。」
と思うまもなく、六人の月世界探検者を乗せた空中飛行船|翔鷲号《しょうしゅうごう》は非常な速力で突進して月に落ち、大地震でも揺ったような激しい衝動をうけたと思うと、一行は悉《ことごと》く気絶して終《しま》った。
 そもそもこの探検隊は目下日本で有名な否《いな》世界中に誰知らぬ者もないほどに有名な桂田《かつらだ》工学博士と、これもその道にかけては頗《すこぶ》る評判の月野《つきの》理学博士とによって主唱され、それに両博士の助手が二名、及び星岡光雄、空知晴次といういずれも中学四年生の少年とで組織されているので、一行は桂田博士が発明した最新式の空中飛行船に乗じて、この試運転の第一着手として、吾が地球から最も近い月世界の探検を思い立ったのである。しかしこんな冒険な一命を賭するような事業に加わるのは実に乱暴極まった話だが、この二人はいずれも月野理学博士の親戚の少年で博士の家に厄介になって、その監督をうけつつ通学しているのだが、いつの間に聞き出したか、桂田博士と月野博士の計画を知って、是非にお伴をさせてくれるようにと、蒼蠅《うるさ》く頼んで何といっても肯《き》かないので、博士も遂に承諾して一行の中《うち》に加えたのだ。それから助手というのは一人は山本広、一人は卯山飛達《うやまとびたつ》といって、ともに博士の手足となって数年来この事業のために尽瘁《じんすい》しているという、至極忠実なる人々だ。日本東京を出発してから十六日目、いよいよ月に近いた時に、不意に飛行器に狂いが生じて遂々《とうとう》こんな珍事が出来したのだ。
 将碁《しょうぎ》倒しになって気絶していた一行の中で、最先《まっさき》に桂田博士が正気に返ってムクムクと起き上った。半ば身を立てて四辺《あたり》を見ると実に何ともいわれない悲惨な有様だ。
 自分らの這入《はい》っていた一室はどうにか壊れずにいるが、部屋の中は宛然《まるで》玩具箱を引繰り返したように、種々《いろいろ》の道具が何一つとして正しく位置を保っているのはなく、悉く転倒して、そこら一面に散在《ちらば》っている中に、月野博士を初め助手も二少年も、折り重って気絶している。
 博士は立ち上ろうとしたが、先刻《さっき》の衝突で酷《ひど》く身体を打ったと見えて、腰の関節が痛んで中々立てそうもない。やっと我慢して這いながら室の隅まで行って、壊れた棚から一つの薬箱を取り出して呑むと、少しは心地よくなったので、まず一番手近な山本を抱き起して薬を呑ませると、暫《しばら》くしてようよう息を吹き返した。二人ながらまだ半病人だが互に協力してほかの一同に同じように薬を呑ませると幸にも皆正気に復したが、いずれもいずれも死人のような真蒼な顔をしている。
 暫時《しばらく》は誰も無言でいたが、少し元気を回復すると、桂田博士は、
「やどうも大変な目に逢ったね。」
と最先に口を切った。
「実に酷い目に逢った。僕はあの時はもう駄目だと思ったが、それでもよく気が付いた。」
と月野博士が答える。
 今迄|喘《あえ》ぐように苦しげに呼吸していた晴次はこの時ようよう口を開いて、
「叔父さん。(月野博士の事を二人ながら叔父さんと呼んでいるのだ。)今迄何でもなかったのが一体どうしてあんなになったんでしょう。」
と如何《いか》にも不思議気に尋ねる。
「それは。」と桂田博士が横から引取って、「始めの中はそうでもないが、飛行船が月に近くなるとともに、今迄は地球の引力に左右されていたのが、俄《にわか》に月の引力に曳かれたからで。」……と苦笑しつつ「僕も勿論始めにこの研究もして充分の設備はしておいたつもりなんだけれど、まだ設備が足りなかったと見えて、遂々《とうとう》こんな目にあわされたんだ。これは全く僕の手落なんだ。」
と半分は晴次への説明、半分はほかの者への申訳のようにいった。
 莞爾莞爾《にこにこ》しながら聞いていた月野博士は、
「ここまでは桂田君の尽力でまず無事に到着したからこれから僕の働く番だ。」
と、いいながら立ち上って、厚い硝子《ガラス》を張った窓から外を覗《のぞ》いて、
「実に荒涼たるもんだなあ。」
と感じ入ったようにいったので、ほかの人々もこの時始めて外を見た。
 実《げ》に見渡す限り磊々《らいらい》塁々たる石塊の山野のみで、聞ゆ
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
江見 水蔭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング