空頼みと云わば云え、希望に輝く旅立であった。
新井《あらい》の宿《しゅく》より小出雲坂《おいずもざか》、老《おい》ずの坂とも呼ぶのが何となく嬉しかった。名に三本木の駅路《うまやじ》と聴いては連理の樹《き》の今は片木《かたき》なるを怨みもした。
右は妙高の高嶺、左は関川の流れを越して斑尾《まだらお》の連山。この峡間《はざま》の関山宿に一泊あり。明くる日は大田切、関川越して野尻《のじり》近き頃は、夏の日も大分傾き、黒姫おろしが涼しさに過ぎた。今宵の本陣は信州|柏原《かしわばら》の定めであった。
「ハテ、不思議や」
梨地金蒔絵、鋲打《びょううち》の女乗物。駕籠《かご》の引戸開けて風を通しながらの高田殿は、又してもここで呟《つぶや》かれた。
それは、大田切を過ぎる頃からであった。いつぞや寝所間近く忍び寄った曲者《くせもの》が有った。危く御簾《みす》の内にまで入って、燈火《ともしび》消そうと試みたのを、宿直の侍女が見出して、取押えて面《おもて》を見れば、十七八の若衆にして、色白の美男子であった。
それは併し磔刑《はりつけ》にして、現世《このよ》に有るべき理が無いのに、その時の若衆そっくりのが、他の土民等と道端に土下座しながら、面を上げてこちらを見詰めていた。弟にてもあるかと思ったが、その場限りの筈の者が関川でも再び現われた。大田切では旅商人の姿であった。関川では巡礼姿。今又この黒姫の裾野にては、旅の武士の姿なのであった。
同じ人か。別の人か。同じ人とすれば、何んで着物が変るのか。別の人とすれば、三人まで、似たとは愚かそのままの顔。もしや、過ぎし曲者の由縁《ゆかり》の者にて、仇《あだ》を報ぜんとするのでは有るまいか。油断のならぬと気着いた時に、ぞっとした。
忽《たちま》ち、チクリと右の手の甲が痛み出した。見ると毒虫にいつの間にやら螫《さ》されていた。駕龍の中には妙《たえ》なる名香さえ焚いてあるのだ。虫の入りようも無いものをと思えども、そこには既に赤く腫れ上っていた。
「これ、誰《た》そ、早う来てたもれ。虫に手を」
乗物の両脇には徒歩《かち》女中が三人ずつ立って、警護しているのに、怪しき若衆を度々見る事も、今こうして毒虫に螫された事も、少しも心着かずにいる。高田殿はそれが腹立たしくもなった。
「はッ、御用に御座りまするか」と徒歩女中には口を利かせず、直ぐ駕籠|後《あと》に立った老女|笹尾《ささお》が、結び草履の足下を小刻みに近寄った。
この途端、青嵐《あおあらし》というには余りに凄かった。魔風と云おうか、悪風と去おうか、突如として黒姫おろしが吹荒《ふきすさ》んだ。それに巻上げられた砂塵《すなぼこり》に、行列の人々ことごとく押包まれた。雲か霧かとも疑わした。
笹尾は急いでお乗物の戸を締めた。陸尺《ろくしゃく》四人も立ちすくんだ。手代り四人も茫然とした。持槍、薙刀《なぎなた》、台笠、立傘、挟箱、用長持《ようながもち》、引馬までが動揺して、混乱せずにはいられなかった。
それは併し間もなく吹き抜けて、湖水の方にと去ったのであったが、二百余人の供廻りの、眼を開き得る者は一人も無かった。
「砂が目に入ったので御座ろう」
「いや、虫の群をなしたのが、あの風に巻込まれて、運悪くも眼の中に」
「それならば未だ宜しいが、曲者有って、一時に目潰しでも投げたのでは御座るまいか、ヒリヒリ致してどうも成り申さぬ」
大名行列の大勢ことごとくが、一時|盲目《めくら》になって立往生をしたのであった。
七
信州柏原の本陣、古間内《こまうち》の表屋敷上段の間には、松平越後守光長が入り、奥座敷上段の間には、御後室《ごこうしつ》高田殿が入られたのであった。
老女笹尾を筆頭としてお供の女中残らずが、黒姫の裾野の怪旋風に両眼殆ど潰れたも同然、表方の侍とても皆その通りで、典薬が手当も効を見ず、涙が出て留度《とめど》が無かった。
されば本陣御着にても、御湯浴、御召替、御食事など、お側小姓も、お付女中も、手の出しようが無い為に、異例では有るが本陣の娘、宿役人の娘など急に集めて、御給仕だけはさせたのであった。
「駕籠の戸を笹尾が早う閉じたので、妾《わらわ》だけは目を痛めなんだ。したが、皆の者、今宵は早う眠るが好い、左様致したなら翌日《あす》は治ろう。好《よ》う一畑の薬師如来を信仰せよ」
御後室はそう云って、自分にも早くより蚊帳を吊らせ、寝所にと入られたのであった。
高田を立って二日目、女中達は皆足を痛めている上に、眼まで今日は痛めたので、行燈の光さえ眼眩《まぶ》しいところから、宿直《とのい》の人を残して、いずれも割当てられた部屋部屋へ引下った。
お次の間には老女笹尾が御添寝を承わり、その又次の間が当番の腰元二人、綾女《あやじょ》、縫女《ぬい
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