怪異黒姫おろし
江見水蔭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)髭面《ひげづら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)街道|端《はず》れの

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》の
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       一

 熊! 熊! 荒熊。それが人に化けたような乱髪、髯面《ひげづら》、毛むくじゃらの手、扮装《いでたち》は黒紋付の垢染《あかじ》みたのに裁付袴《たっつけばかま》。背中から腋の下へ斜《はす》に、渋段々染の風呂敷包を結び負いにして、朱鞘の大小ぶっ込みの他《ほか》に、鉄扇まで腰に差した。諸国武者修業の豪傑とは誰の眼にも見えるのが、大鼻の頭に汗の珠《たま》を浮べながら、力一杯片膝下に捻伏《ねじふ》せているのは、娘とも見える色白の、十六七の美少年、前髪既に弾け乱れて、地上の緑草《りょくそう》に搦《から》めるのであった。
「御免なされませ。お許し下さりませ」
 悲し気にかつは苦し気に、はた唸《うめ》き気味で詫びるのであった。
「何んで許そうぞ、拙者に捕ったが最期じゃ。観念して云うがままに成りおれぇ」と、武道者の声は太く濁って、皹入《ひびい》りの竹法螺《たけぼら》を吹くに似通った。
 北国《ほっこく》街道から西に入った黒姫山《くろひめやま》の裾野の中、雑木は時しもの新緑に、午《ひる》過ぎの強烈な日の光を避けて、四辺《あたり》は薄暗くなっていた。
 山神《さんじん》の石の祠《ほこら》、苔に蒸し、清水の湧出《わきいず》る御手洗池《みたらしいけ》には、去歳《こぞ》の落葉が底に積って、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》の這うのが手近くも見えた。
 萱《かや》や、芒《すすき》や、桔梗《ききょう》や、小萩《こはぎ》や、一面にそれは新芽を並べて、緑を競って生え繁っていた。その上で荒熊の如き武道者が、乙女の如き美少年を、無残にも膝下《しっか》に組敷いているのは、いずれ尋常の出来事と見えなかった。
 もとより人里には遠く、街道|端《はず》れの事なれば、旅の者の往来《ゆきき》は無し。ただ孵化《かえ》り立の蝉《せみ》が弱々しく鳴くのと、山鶯《やまうぐいす》の旬《しゅん》脱《はず》れに啼くのとが、断《き》れつ続きつ聴えるばかり。
「それならば、どう致したら宜しいのか」と怨めしそうに美少年は云った。
「おぬしの身の皮を残らず剥《は》ぐ。丸裸にして調べるのじゃ」
「それは又何故に」
「ええ、未《ま》だ空惚《そらとぼ》けおるか。おぬしは拙者の腰の印籠《いんろう》を盗みおった。勿論油断して岩を枕に午睡《ひるね》したのがこちらの不覚。併し懐中無一文の武者修業、行先々《ゆくさきざき》の道場荒し。いずれ貧乏と見縊《みくび》って、腰の印籠に眼を付けたのが憎らしい。印籠は僅かに二重、出来合の安塗、朱に黒く釘貫《くぎぬき》の紋、取ったとて何んとなろう。中の薬とても小田原の外郎《ういろう》、天下どこにもある品を、何んでおぬしは抜き取った」
「いえいえ、全く覚えの無い事」
「ええ、未だ隠すか。これ、この懐中《ふところ》のふくらみ、よもやその方|女子《おなご》にして、乳房の高まりでも有るまいが」
 毛むくじゃらの手を懐中《ふところ》に突込み、胸を引裂いてその腸《はらわた》でも引ずり出したかの様、朱塗の剥げた粗末な二重印籠、根付《ねつけ》も緒締《おじめ》も安物揃い。
「これ見ろ」
 美少年は身を顫わせ、眼には涙をさえ浮べて。
「御免なされませ。まことは私、盗みました。それも母親の大病、医師《いしゃ》に見せるも、薬を買うも、心に委《まか》せぬ貧乏ぐらしに」
「なんじゃ、母親の大病、ふむ、盗みをする、孝行からとは、こりゃ近頃の感服話。なれども、待て、人の物に手を掛けたからには、罪は既に犯したもの。このままには許し置かれぬ。拙者は拙者だけの成敗、為《す》るだけの事は為る。廻国中の話の種。黒姫山の裾野にて、若衆の叩き払い致して遣わすぞ」
 力に委せて武道者は、笞刑《ちけい》を美少年に試みようとした。
「この上は是非御座りませぬ。御心委せに致しまする。が、お情けには、人に見られぬ処にて、お仕置受けましょう。ここは未だ山の者の往来が御座りまする」と美少年は懇願した。
「好《よ》し、それでは、山神の祠の後へ廻わろう」と漸《ようや》く武道者は手を緩めた。
「これもこちらへ隠しまして」と美少年は草籠《くさかご》を片寄せると見せて、利鎌《とがま》取るや武道者の頸《くび》に引掛け、力委せにグッと引いた。
「わッ」と声を立てたきり、空《くう》を掴《つか》んで武道者は、見掛けに依《よ》らぬ脆《もろ》い
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