じょ》というのが紅絹《もみ》の片《きれ》で眼を押えながら宿直に当った。
 この土地冬は雪多く、夏は又蚊が少くないのであった。団扇《うちわ》使いは御寝《ぎょしん》の妨げと差控え、その代り名香をふんだんに、蚊遣り火の如く焚くのは怠らなかった。それも併し、時の過ぎるに従って、昼間のつかれに二人とも、居眠りせずにはいられなかった。
 高田殿は広き白紗《はくしゃ》の蚊帳の中で、身を悶悩《もんのう》させずにはいられなかった。眼はただ一人助かったなれど、その代り右の手の甲を毒虫に螫《さ》されたので、それがいつまでも痛痒《いたがゆ》くて何んとしても耐えられぬのであった。
 それにいつの間にやられたのか、その手の甲と同じように、背筋にも痛痒さを覚えるので、それを自から掻こうとしても、手の先は巧く思う壺に達せぬ事を怠緩《もどか》しがった。
 それや、これや、中々に眠りに就けなかった。寝られぬままに考えると、怪しき事のみ今日は多かった。
 大田切の路傍で見た旅商人の若衆、関川で見た巡礼の若衆、最後に黒姫山の裾野で見た武家若衆。同じ人か。別の人か。三ヶ所で見たのは、扮装《いでたち》は別々ながら、いずれも高田城内に忍び込んだ怪しき若者にそのままで有った。もしやその由緒《ゆかり》の者が怨恨《うらみ》を晴らさん為に、附狙うのではあるまいか。そう思うと又してもぞっとして、全身を悪寒をさえ生じたのであった。
 背筋の痒さは一層強く覚え出した。いかに身を悶悩さして、敷蒲団《しきぶとん》に擦付《こすりつ》けても、少しも思うように痒さは癒えぬのであった。
「あッ、もう、どうしようのう」
 思わず知らず、口走った。大名の権威も、女子の謹慎も、共に忘れて了《しま》ったのであった。
「誰《た》そ、早う……あ……もう、絶入《たえい》るばかりじゃ。誰《た》そ来てたもれ」
 常ならば次の間の笹尾が真先に起きて来るものを、疲れ切ってか、眠りから覚めなかった。宿直の侍女もどうしたのか、二人ともそれを聴かぬらしい。こっちへ来ようとはしなかった。
「誰《た》そ、誰そ」
 高田殿の悩みの声。
「はッ、何御用に御座りまするか」
 絹張の丸行燈の下に、両手を突いて頭《かしら》を下げた少女を、高田殿は蚊帳越しに見た。それはどうやら給仕に出た本陣の娘らしく思われたのであった。
「おう、能《よ》う来てくれやった。さッ、早う。その方でも苦
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