大道臼《だいどううす》のようなのは、随分斬り出があったろうと思います」と語り出した。
「ふむ、それは怪《け》しからん。女の臀部《でんぶ》を斬るとは一体何の為だか。いずれ馬鹿か、狂人《きちがい》の所業《しわざ》であろうな」と源八郎も新事実を聴いてちょっと驚いた。
「まだほかに何があったか知れませんが、それはただ私達の耳に入らねえだけのことだと思います。今夜もきっと何かあるだろうと思われますよ。何しろ諸方から大勢人が入込んで居りますから……それに、昨年は、信州《しんしゅう》のある大名のお部屋様が、本町宿《ほんちょうじゅく》の本陣《ほんじん》旅籠《はたご》にお泊りで、そこにもなんだか変な事があったそうで、それについては私は能《よ》く存じませんがね」
「大名のお部屋が泊っていても、矢張神輿渡御の刻限には火を消さずばなるまいな」
「それはもうどちら様がお泊りでも、火を点《つ》けることはできますまい」
源八郎は考えた。六人の旗本の鼻を削ったのと、十数人の女の臀部を斬ったのと、又大名の愛妾《あいしょう》を襲ったのと、同一人物の手であるかどうか。これは研究物だと心着いたのであった。
この時、旅商人は急に心づいた様子で、
「や、御武家様、私に限らず今夜はもうとてもこの宿《しゅく》へは泊れません、どこも一杯です。それで私は布田《ふだ》までのして置きまする。へえ、甲州へ絹を仕入れに行った帰りでございます。御免下さいまし」
勘定を済ましてせっせと先に行ってしまった。源八郎はその旅商人を、どうも怪しいと睨《にら》まずにはいられなかった。
道中の胡麻《ごま》の灰《はい》形の男にも見えた。あるいは又すり[#「すり」に傍点]稼ぎのために入込んだ者のようにも思われた。あいつが仕事のついでに、悪戯《いたずら》をして廻るのではあるまいか。そんな疑念をも生じたのであった。
すり[#「すり」に傍点]は一種特異の刃物を掌中に持っている。それで巾着《きんちゃく》を切ることもあり、仕事の邪魔をした者に復讐的に顔面を傷つけるという話は聴いている。あの旅商人が巾着切とすれば、どうも鼻そぎ臀切りの犯人が、あいつのように思われてならぬのであった。
あいつ真《しん》に甲州へ絹の仕入れに行き、江戸へ帰るべく今夜布田に泊る者とすれば、もうこの土地に姿を見せぬはず。もしあいつが暗闇の前後に、まだ府中の土地を踏んでいるとすれば、もう確かだ。引捕えて白状さして、今度はこっちから鼻を落してやると、源八郎はそういう決心をして、酒は一升で打ち切り、勘定済まして立場茶屋を出た。
まだ神輿出御の刻限には間があったので、源八郎は群集を避けて、本社の背後へと廻って見た。
有名な乳房銀杏《ちぶさいちょう》から後《うしろ》には杉松その他の木が繁っていて、昼も暗いくらいだから、夜はまだ燈明を消さぬ間から暗いのであった。
源八郎にはしかし、少しもそれが暗くないのであった。透《すか》せば朧気《おぼろげ》に立木の数も数えられるのであった。源八郎の眼は長沼正兵衛すらも驚いているのであった。
小机源八郎は、武州|橘樹郡《たちばなごおり》小机村《こづくえむら》の郷士の子で、子供の時に眼を患ったのを、廻国の六十六部が祈祷して、薬師の水というのを付けてくれた。それで全治してから後《のち》は、不思議に夜目が利くようになったのであった。
野獣の眼が暗夜に輝くという、そこまでには至らずとも、とにかく普通の者に比べると、薄々ながら見えるのであった。
四
何心なく源八郎は裏山の方を透して見た。すると大きな大きな欅《けやき》の樹の、すでに立枯れになっているのが、妖魔の王の突立つ如くに目に入った。その根下《ねもと》に、怪しい人影が一個認められた。
気になるので密《そっ》と立木の間を縫って、近寄って見ると、意外にもそれは例の旅商人であった。
いよいよ以て怪しいと思って、源八郎は忍び足に近寄ろうとすると、旅商人はすでにそれと感付いたらしく、立上って逃げようとした。
「おいおい、お前はまだここにいたんだな。布田の方へは行かなかったのか」
源八郎は声を掛けた。
「おやっ」
少からず旅商人は驚いた。
「旦那は、能くこの暗いのに、私ということが分りましたね」
「お前は又拙者が忍んで近寄ったのに、能く分ったの」
向うも驚いたが、こちらでも驚いたのであった。
「へえ、私は、昼間より、夜分の方が眼が能く見えますんで」
「なに、その方も夜目が利くのか。拙者も実は夜目が利くのだ」
「おや、旦那も夜目がねぇ、へえ、そうでございますかい。じゃあ矢張、お稼ぎになるんですね」
「稼ぐとは何を」
「へへへへ」
「何を稼ぐと申すのか」
「なに、ちょっと、その」
「拙者を白浪《しらなみ》仲間とでも感違いを致したのか」
「まあ、
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