悪因縁の怨
江見水蔭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)天保銭《てんぽうせん》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|家《うち》まで

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)海※[#「魚+喞のつくり」、第3水準1−94−46]《かいず》
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       一

 天保銭《てんぽうせん》の出来た時代と今と比べると、なんでも大変に相違しているが、地理でも非常に変化している。現代で羽田《はねだ》というと直ぐと稲荷《いなり》を説き、蒲田《かまた》から電車で六七分の間に行かれるけれど、天保時代にはとてもそう行かなかった。
 第一、羽田稲荷なんて社《やしろ》は無かった。鈴木新田《すずきしんでん》という土地が開けていなくって、潮の満干のある蘆《あし》の洲《す》に過ぎなかった。
「ええ、羽田へ行って来ました」
「ああ、弁天様《べんてんさま》へ御参詣で」
 羽田の弁天と云ったら当時名高いもので、江戸からテクテク歩き、一日掛りでお参りをしたもの。中には二日掛ったのもある。それは品川《しながわ》の飯盛女《めしもりおんな》に引掛ったので。
 そもそも羽田の弁天の社は、今でこそ普通の平地で、畑の中に詰らなく遺《のこ》っているけれど、天保時代には、要島《かなめじま》という島に成っていて、江戸名所図絵《えどめいしょずえ》を見ても分る。此地眺望最も秀美、東は滄海《そうかい》漫々《まんまん》として、旭日《きょくじつ》の房総《ぼうそう》の山に掛るあり、南は玉川《たまがわ》混々《こんこん》として清流の富峰《ふほう》の雪に映ずるあり、西は海老取川《えびとりがわ》を隔て云々、大層賞めて書いてある。
 この境内の玉川尻に向った方に、葭簀《よしず》張りの茶店があって、肉桂《にっけい》の根や、煎豆や、駄菓子や、大師河原《だいしがわら》の梨の実など並べていた。デブデブ肥満《ふと》った漁師の嬶《かみ》さんが、袖無し襦袢《じゅばん》に腰巻で、それに帯だけを締めていた。今時こんな風俗をしていると警察から注意されるが、その頃は裸体《はだか》の雲助《くもすけ》が天下の大道にゴロゴロしていたのだから、それから見るとなんでも無かった。
「好い景色では無いか」
「左様で御座います。第一、海から来る風の涼しさと云ったら」
 茶店に休んで、青竹の欄干に凭《よ》りながら、紺地に金泥で唐詩を摺《す》った扇子で、海からの風の他に懐中《ふところ》へ風を扇《あお》ぎ入れるのは、月代《さかやき》の痕《あと》の青い、色の白い、若殿風。却々《なかなか》の美男子であった。水浅黄に沢瀉《おもだか》の紋附の帷子《かたびら》、白博多《しろはかた》の帯、透矢《すきや》の羽織は脱いで飛ばぬ様に刀の大を置いて、小と矢立だけは腰にしていた。
 それに対したのが気軽そうな宗匠振《そうじょうぶり》。朽色《くちいろ》の麻の衣服に、黒絽《くろろ》の十徳《じっとく》を、これも脱いで、矢張飛ばぬ様に瓢箪《ひょうたん》を重石《おもし》に据えていた。
「宗匠は、なんでも委《くわ》しいが、チト当社の通《つう》でも並べて聞かしたら如何《どう》かの。その間《うち》には市助《いちすけ》も、なにか肴《さかな》を見附けて参るであろうで……」
「ええ、そもそも羽田の浦を、扇ヶ浜《おうぎがはま》と申しまするで、それで、それ、此地を要島、これは見立で御座いますな。相州《そうしゅう》江《え》の島《しま》の弁財天《べんざいてん》と同体にして、弘法大師《こうぼうだいし》の作とあります。別当は真言宗《しんごんしゅう》にして、金生山《きんしょうざん》龍王密院《りゅうおうみついん》と号し、宝永《ほうえい》八年四月、海誉法印《かいよほういん》の霊夢《れいむ》に由り……」
「宗匠、手帳を出して棒読みは恐れ入る。縁起を記した額面を写し立のホヤホヤでは無いかね」
「実は、その通り」
 他愛の無い事を云っているところへ、茶店の嬶さんが茶を持って来た。
「お暑う御座いますが、お暑い時には、かえってお熱いお茶を召上った方が、かえってお暑う御座いませんで……」
「酷くお暑い尽しの台詞《せりふ》だな。しかし全くその通りだ。熱い茶を暑中に出すなんか、一口に羽田と馬鹿にも出来ないね」
「能《よ》く江戸からお客様が入らッしゃいますで、余《あん》まりトンチキの真似も出来ませんよ」
「それは好いけれど、何かこう、茶菓子になる物は無いかえ。川上になるが、川崎《かわさき》の万年屋《まんねんや》の鶴と亀との米饅頭《よねまんじゅう》くらい取寄せて置いても好い筈だが」
「お客様、御冗談ばかり、あの米饅頭は、おほほほほ。物が違いますよ」
「ははは。羽田なら船
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