恋の一杯売
Love on Drought
吉行エイスケ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)露西亜《ロシア》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)窓|硝子《ガラス》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いそ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 アンナ・スラビナ、私が露西亜《ロシア》共和国の踊りの一隅、朱色の靴にふまれて、とある酒台にもたれている。脂ぽい好奇心に犯された赤い衣服、青い化粧した過去の女性の面影が盛り上った曙色の胸に掲げられている。旗亭ダリコントの熱情の女、アンナ・スラビナの周囲、旅装した中年の三人の外国人が取巻いている。
 娘のアンナ・ニコロと私、熱烈な接吻、果しがない。一体アンナ・ニコロの愛情に果しがない。さすが、日本を喰いあげた私でさえ、アンナの桃色の乳房、私の身命を賭けて戦う。愛のため、ニコロの愛欲の満腹のためには、私は未来の歓楽もビイクトリア勲章の憧れさえも、放擲《ほうてき》する考えだ。私は死すとも恥ない。

 まだ私が銀座でシルクハットのうえ、チャルストンを踊っていたころ、友達の横田は亜米利加《アメリカ》の流行女達の間に東洋人を情夫に持つことが紐育《ニューヨーク》の社交界に風靡《ふうび》しだすと忽《たちま》ち渡米してしまった。いまでは横田はヤンキーの女達が過去スペインの愛犬に恋慕したように、無謀な愛情ときわどい婦人社会の教養をうけて裸体で近東風な機械体操や、スパルタ風の腕力を発揮したり、恐らくあの毛むくじゃらの胸を、つき出して、サロンを物好きな流行女の号令によって、自由自在に這い廻っていることだろう。
 しかし、私は横田の生活が羨ましくはない。私には、私を愛してくれる数人の女達によって、運命は咲き誇っているのだ。私は哀れな男ではない。私は傲岸《ごうがん》[#ルビの「ごうがん」は底本では「ごうかん」]な男だ。私が彼女達を愛するのは女達の男道楽さめやすい色恋をシャム料理法と珈琲《コーヒー》色の皮膚に刺繍《ししゅう》した。いまでは犬でさえ逃げ出す女達に、私は容易に身を委《まか》すことができるようになった。
 私がホテルの寝台でしおれかかったビリダリアの夜の花。
 必ず、私が眼覚めたとき憂鬱な少女を、その頃、暮れかかった寝室の側に見出した。私が眼覚めたのを彼女が感ずると彼女は、必ず Melins の帯をといて、私の…………………と囁いた。
「妾《わたし》、朝からまっていたのです」

 やがて暫《しば》しの後、彼女の後姿が、混合酒の触感を撒《ま》いて廊下から消えると、私は地下室の湯殿で未来を夢みる。私は現代が、夜光虫と欧羅巴《ヨーロッパ》スタイルのグランド・ホテル・ド・横浜のダンシング・ホールと空中の軽業《かるわざ》だと断定する。
 私の恋人花田君子は一刻後、私の部屋を訪ねてくるだろう。彼女も現代を形づくる発育不完全、性を失った女、太平洋を航海しているアラビア漁船の窓|硝子《ガラス》に似た黒い乳房、戦争と東洋文明が女性をマゾヒストにしてしまう。私が花田君子を家畜のように愛撫した時世から、いまでは私は淫祠《いんし》的な日本人の肉感と、彼女が私になす虐待をあまんじて受けなくてはならぬ。
 私は今夜タバーンの階廊に酔いつぶれる。私は化粧しなくてはならぬ。私の口紅は街のフラッパーどもの額に支那流の卑しい装飾をつける。私は油黄を塗布する、未来派の入墨を瞼に刺繍《ししゅう》する。
 カバレット銀座の情婦、無智な妖婦《ようふ》から電話がかかってくる。私は裸でお前の心に転落する。ニグロの海よりも鉛色の恋の貸家、お前馬鹿ほどたのもしいものは、この世にない。浮気ものにインターナショナルの戦勝盃を与えて、お前涙もろい女、近代主義の楽天家、お前が私を愛する心、俺のためには死をも辞せない。お前を尊敬する全ての男はお前を貨物自動車にのったヴィクトリア女皇だと讃《ほ》めたたえる。俺の愛は昨日よりも深くお前を愛する。すると彼女の癇高《かんだか》い水銀色の声が市内の電線を引ちぎってしまう。
 ――うわ! 妾は嬉しい。憎い男、妾の伊達男《だておとこ》、お前が苦しむほど抱きしめたい、女の全て投げ出して。恋の司令官早く来い。
 私はコンビネエション嵌《は》めている。私赤い絹巻煙草の煙、吐き出すと気取ったマドモワゼル花田の靴音が廊下をピアノのようにたたく。

 私が日本を棄《す》てて露西亜《ロシア》語の国、旗亭ダリコントの部屋の隅で、クレオパトラの鼻がクリミヤ半島になる迄の女の歴史、ロシア、火酒《ウオッカ》、私を陰鬱なものにしてしまう。アンナ・ニコロこそ私の運命の活火山だ。母親のアンナ・スラビナがセルビア戦争をモスクワで洗濯していたころ、可憐なニコロは機関銃と義足とスラビナの涙のうちに生長した、そのころ既に彼女には天分がめぐまれていたのだ。
 不幸にして露西亜はレーニンの奇蹟的な偉業とアンナ・スラビナの半身不随によって、過去タレルキンの饒舌《じょうぜつ》、私に遺伝してしまった。しかし所詮ニコロは現在に生きる女性だ、彼女の愛情は未来を苛酷に約束する。思えば何人の予測も許さない。運命は、いまや惨酷《ざんこく》に私に挑戦する。私は取乱した、アンナ・ニコロの寝室に侵人する。…………をつけたアンナの……、いそ/\と私を迎えると※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々として私の唇に接吻して、心にもない。両耳の上の塹壕《ざんごう》に宣戦をいどむと私たちの国境から突然逃げ出してしまった。

 私が階下に花田君子の靴音を聞いたころ、友人の横田は紐育《ニューヨーク》の女優メイ・マアガレッタの男妾《おとこめかけ》として外科的な名誉と人気をかち得ていた。私の瀟洒《しょうしゃ》なフランス流の友人河村は日本の女によって恋の重荷をになう。河村は決して幸福ではないのだ。横田はヤンキーの女によって陶酔されメイ・マアガレッタの虚栄心を満足さしたが、河村はひたすら必要品に過ぎなかった。河村の存在は彼の所有主を情けないものにした。河村の華著《きゃしゃ》な肉体と美しい外貌《がいぼう》さえむごたらしく閉ざされた。
 しかし、私の場合、私はヒロイストだ。私は女を軽侮しなければならぬ。女を不幸にしなくてはならぬ。女達が私に身を委《まか》せるとき、彼女達の感受性から海豚《イルカ》の粘々した動物性をうける。ときによると塹壕《ざんごう》から掘出した女|聯隊《れんたい》の隊長の肢体を。もと/\我々が地理と科学の発生を埋葬する。
 ――ヨシユキ、何か考えている? 惚れ/″\と妾《わたし》の俳優|羅馬《ローマ》皇帝が。妾は貴男《あなた》に対する研究心を根気よく棄てない、まるでアラビアの貴婦人みたいに。妾に色眼鏡買ってくれたのも貴男の持ち前の愛情が風流男の花輪をかくように。
 素敵、どう、でない?
 ――妾ったら無条件で貴男に降服することがある。但し貴男が妾の要求を承知しての話なのよ。
[#ここから1字下げ]
 一、私が棄てられた情人の頭文字Eを以て、新婚の夜は、妾の横顔英仏海峡に描いて敬礼すること。
 二、毎朝、妾の舌をブラシで掃除してくれること。
 三、妾が踊子でありソプラノの唄手、イクラ座のプリ・マドンナである天分を認めること。
 四、ゴルフ競技会の前夜は、貴男は敬虔《けいけん》な態度で夜を徹して妾の小指を保管すること。
 五、妾の生理学について貴男は熱心に研究すること。
[#ここで字下げ終わり]

 ――マドモワゼル君子、僕は貴女の要求の全部に僕の一生を賭けます。
 彼女ユーロップの頭とアラビア海の心臓と東洋風の肉体、苦もなく私に委せてしまった。

 しかし彼女の凱旋門《がいせんもん》、恐るべきことがある。
 花田君子から私は動物的な感触とピカデリあたりの聯隊旗《れんたいき》みたいな嘔吐物《おうとぶつ》をうけたのだ。
 彼女が東洋の女の尻尾と男性の舞踊会に用いるルーブル紙幣の仮面、といって彼女が銀色のコオセットに太平洋をぶらさげてはいないのだ。やはり彼女も海豚《イルカ》なのだ。
 それにしても花田君子の抱擁はまたしても私に新らしく生れた時代の不安を与えたものだが、一たい彼女の頭、骨から見下した流動的な肉感ってものが、さながら母体を地球儀にして埋れた出産前の幼児にさえ酷似《こくじ》しているのだ。Bullock 恋にやつれたエレクトラの広告板から湧き出すオオケストラ、しかも彼女の才能は日比谷街にもまして複雑なのだ。太く短い環、古代の貞節な女に似て垂れ下った醜い肩、まるで病み疲れてサタンに生育を阻止された女が奇妙な嬌態《きょうたい》をして、流行の衣裳と近代の手管をもって私の前に現れたのだ。

 コメット・ヌマタは夜の空間、花火吹散らして空高く、飛行ズボン脱いで牡鶏《おんどり》の真似をしている。ひどく古加乙涅《コカイン》の酔が利いた夜であった。
 今では男が女のようにスカートをはく時代なのだ。銀座の市場では阿片《あへん》の花が陽気に満開し、薬種屋の前では群集が巡邏《じゅんら》に口輪を嵌《は》めている。地球の地下室では切開された、メロ・ドラマの開演のベルがけたたましく鳴りひびくのだった。
 こうした瞬間を限って変る人間の気持ちと、構成され破壊される歴史の記録を掲示する銀座の青色の夜、プロレタリア駆逐《くちく》したプチ・ブルジョワ達によって、かくも盛大に開演された未来派のオペラ、金属的なめろでい、青磁色の空には女優募集の広告と、ダダイズムの集会の予告板とが蛾《が》と戯《たわむ》れていた。カバレットのキャラバン、酒場から酒場へ近道の建札、夜の美粧院に吊された青蛙の料理写真にしたらんたん、足の化粧法、日本人を日本人らしく見せない整型学、醜いものをグロテスクにするための進歩主義、あわただしい木馬競走に見惚れる観衆の喝采。
 私は花田君子柳の下に棄てて、カバレット銀座、未来の情婦、万国の血をみて狂うメイ・フレデリック、私を見るや彼女の情熱死物狂い(その頃喫茶店インタナショナルの芸術家は珈琲《コーヒー》とフランス菓子に驚歎《きょうたん》して昆虫類が今後人間に代ってエゴイズムと排他主義、実行する。)
 水晶色のシャンパン、エナメルの空、噴水してメイ・フレデリックの金色の靴、注いで私は彼女に恋を語る。サロンを平定した私、フレデリックの桃色に化粧した爪先に唇を当てて、千九百二十年後の女性の進歩した足を観察する。バビプによって手術された近代女のヴァルバ、マルセル・ウェーブによって美の典型を指示した化粧術、最もきわどいエルンスト・フルウ氏の子宮除去法、知人の政府委員はメイ・フレデリックの美顔術によってマルクス学の国家理論さえ見下す約束手形を振り出した。しかし次の瞬間が私に東京を去らしてしまった。私は日本が過去の栄華から、幻燈に似た流行を耽溺《たんでき》するプチ・ブルジョワの一群と、実生活から畸型《きけい》的に形成されたブルジョワ末期の社会に発生したプロレタリア精神の出現を、繁雑な社会主義理論闘争から逃れて、私を信仰する一人の女性の涙とともに東京駅を離れて品川の砲台、横目で計算していた。私の旅程――
 1 横浜外交官の無線電信の費用見つもり処、グランドホテル・ド・ヨコハマに設計された硝子張りの円舞場でスパルタの女と根岸の外人ティームとの間で弓術試合が行われた。
 2 神戸――Aオリエンタル・ハウスの踊子が私を占う。「貴男は二十四歳になる恋人と四十歳になるパトロンによって育成されるのです。貴男は、ガソリンの響にもまして不幸な人なのですが、それでいて自分では幸だと思っていらっしゃるのです。」D西洋長屋に住むルーマニア売笑婦。
 3 この夕ぐれを門司の港では木の橋の上で天主教の司祭様が新世界の魚、河豚《ふぐ》を釣りあげていられるのであるが、この糸の
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