のです。厚化粧した二人の踊り部屋、貴女が私にその許可証を渡さないときは僕はウラジオストックの海に果てたいのです。
 ――ヨシユキ、貴男《あなた》の戯談《じょうだん》は私達の国では貴族しか云わなかったのです。それにいまでは貴族は殺されてしまうし、私はボルシェヴィズムの女なのです。
 アンナ・ニコロに私は再び遅刻してしまう、恋の貉《むじな》は何故、さまで苦しむのか。
 ――僕はバルチックの軍艦に結婚を申込む、アンナ・ニコロ、今頃はモスクワの政治委員もアンナ・スラビナも昼寝をむさぼってる時間なのです。
 ニコロは生れがいいので気儘《きまま》で運命には従順な女なのだが、ブルジョアが滅んでからというものは信仰は痛快にも焼払われてしまった。
 ――妾《わたし》が真面目な女だものだから、結婚するには政府の許可が必要です。それに東洋人の薄情犬も喰わないのです。

 アンナ・スラビナ、三個のスイス製のトランクを開いてみて、彼女は涙ぐむのであった。スラビナの勲章哀れにも売られてしまって、彼等三人の外国人が支那へ兵隊に買われて行かねばならぬ。現在では帝政の紙幣が一文の価値もない。アンナ・ニコロの発育とともに消えてしまった。
 ――ヨシユキ、妾一人が幸にはなれないのです。露西亜《ロシア》の女が各国で乞食と売春と恋慕のために深い忍耐力を養っている間妾一人が堅気《かたぎ》にはなれないのです。
 ――アンナ・ニコロ、貴女もまた運命を苛酷に取あつかう女の一人なのです。
 スラビナがわめいている、三人の外国人の腕の中で、アフガニスタンの山脈のような胴体をつねられて悲しみは赤く腫《は》れあがってしまった。支那の黄色の液体が戦線の雇兵《ようへい》に青いスラビの唇、大砲が走る。追いかけ呼びもどして三人の見事な口髭《くちひげ》、銀色の呼吸を流して、年増女の深い思いが高潮に達したときニコロは私の白いワイシャツの皮膚に彼女の眉墨《まゆずみ》でもって、レニングラードに向かって驀進《ばくしん》する機関車と食用蛙を描いて東洋人が彼女の未来の夫であることを象徴するのであった。不幸なことに北海から税関をかすめて密輸入される鮭類と黒狐の肉は腹を満たすためには四十|法《フラン》が必要なので、アンナ・ニコロはスラビナに食欲さえ感じて黙ってしまうのだが、それにも拘《かかわ》らず私は現代のロシアの気狂い染みた歴史家の記録が純粋な女
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