離れて、エルアルズのコーカサスの山脈が静かに黒海に映るころになって、トレビゾンドの赤土のプラットホームに女実業家達が下車すると夜は神秘に地球はハンモックのなかで眠りだすのです。すると僕はとんでもない忘れものをしたことに気が付いて象徴的にさえ感じられる露西亜の暗闇を疾走する列車の窓から北欧に向ってわめきたいような衝動にかられるのです。僕はマルセーユのカバレット・トア・ズン・ドルの東洋の女を一人忘れものしたのです。
話の尾を切ってしかつめらしくアダの顔を覗いて見る。するとアダがくすくす忍びわらいして可笑しさがこみあげると、私の脚を嫌というほど蹴って、それからくるりと後向きになるとアダはセルビア戦争で使用したような鼻を鳴らして部屋から飛出してしまった。
それなのにものの一間もがたがたと床を踏んだかと思うと踵《きびす》をかえして大胆に私を藪睨《やぶにらみ》して、英国人らしく鼻に疣《いぼ》をつくって、
――まあ、Y。妾は悔しいのです。いつまでも妾を女騎兵中尉だなんて思わないでください。貴方が妾をスラブ民族みたいに取扱うのはとりもなおさず妾を馬鹿者あつかいにしている証拠です。いまでは妾が立派な女で、妾は妾のことを北欧の名門の生れだとさえ吹聴しているのです。
私が慇懃《いんぎん》に彼女に、
――お祝いしますよ、アダ。トア・ズン・ドルの板場稼ぎよりその方が僕にとってどのくらい嬉しいかわからないのです。
するとアダはレデイ振《ぶ》って、右足を後に引いて心もち腰をかがめる犬の真似をした。(彼女が堅気らしくコオセットのボタンに仕掛けた護身用の爆弾の火薬の臭がする。病毒にもましてこれは危険きわまる女らしさ。)
――Y、妾が契約の最期の営業を終えたときは夜も白々と明け渡っていたのです。人間というものは甘みとか、苦しみとか臭さ、そういう性情が生活に適応して、そこに味《あじわ》いとか臭とか、或いは他の感覚が惹起《じゃっき》するものなのです。妾は即座にカバレット・トア・ズン・ドルにお別れを告げると、ローヌ河でパンツを洗濯してすっかり清浄な心と魂を持つ女になったのです。――それから、妾はコルシカで英雄の鏡を買うと地中海でその女大学に読み耽《ふけ》りました。ポートサイドでレモンの皮のはいった塩水で嗽《うがい》をしてスエズ運河の両岸の夜景に挟まれて身の丈を長くした妾は天晴《あっぱ》れ一人前の女になったのです。紅海では人々があまりに情熱的になるものだから妾は嘔吐をもよおしたほどです。
――アダ、僕はまた、貴女が金羊毛で故国の女王の詩を朗読するルーマニアの士官とゼノアの産児病院あたりへ身を殺しに行くのではないかと気づかったのです。ときによってジャズ・バンドがビビの音楽をやっているとき、死海の水に映って正気を失った士官に貴女が抱かれて、独逸仕込《ドイツじこみ》の接吻の洪水のなかで、彼奴がロメオとジュリエットの名台詞《めいせりふ》を彼がネロのようにそりかえって早口で喋舌るときは全く貴女を薄倖の踊子だとさえ思ったのです。その夜ルーマニア人が浮気の虫を……におろしに行った間、
「――おい、Y、今晩はおれにつきあえよ――」
と、貴女が云ったのです。それから寝室で始めて貴女が正体もなく酔ってるってことがわかったのです。それからまた夜半になって貴女が金羊毛[#「金羊毛」に傍点]の名にふさわしくないところがあるのに気付いたのですが、そのときには私はあの卑怯なルーマニアの暴漢のために、近東行きの列車に投げ込まれてしまっていたらしいのです。だがそのことにもまして私が云いたいのは、そのときから私は貴女《あなた》を愛していたのです。そしていまもなお私の愛に変りのないことを知ってもらいたいのです。
――妾はルーマニア人と契約しただけなのです。ルーマニア士官の妾がパートナアであった間、彼の男の訓練があまりに深刻なので妾には感覚したり、知覚したり、思考したりする余裕がなかったのです。しかしY、妾が貴方に会ったとき、始めて感覚や知覚や思考ってものは直感からくるってことが分ったのです。妾は勇気を出して翌朝彼が提出した新しい契約を破棄してしまいました。それからのことは妾がさっきお話したとおりです。
――アダ、貴女は日本人が恋しくなったのでしょう。
――聞いてください、Y。妾は亜丁《アテウ》湾を横切って孟買《ボンベイ》に一路船が進行をつづけるころになると急にアラビア海に顔をうつしてお化粧を始めてしまったのです――。
突然パーシの夜の鶏が戸外で鳴き出すと、アダはいらいらして、その他に別に用事はないかと私にたずねる。私がなくてもよいうるさいほどの用事を彼女に申し出るとアダは一つ一つそれを諳記して窓から暗のなかに投棄ててしまうのであった。
私は少し興奮して孟買の私達の邂逅《かいこう》
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