に懐古的な黒い騎士の心をもって、
――アダ、できることなら貴女のために私は何かすることはないかと思うのです。
すると彼女は夫の寝室を訪れた英国の女らしくドアを閉めながら、では、お寝みなさい。と、云うとそのまま扉《ドア》が固く閉ざされてアダの足音は遠く消えてしまうのであった。
翌朝、私は馬車でオスタ島の砲台附近の印度のイサックの別荘に招かれて、黒奴《ニグロ》の紳士と会談するのであったが、でかけるときにアダは私に姿をちらとみせると故意に姿を隠してしまった。赤丸平家に帰ってからもいたずらに空中に聳《そび》える時計台の白い針のみが部屋の窓に侵入して私をいらいらさせた。その翌日は彼女は私に姿さえ見せないのである。私はあわただしい一日を西北のマラバ丘の六個の円筒を見てくらした。土人街では女達がわめいている。スークル・カ・バッチャ、この豚の子奴!
3
孟買《ボンベイ》埠頭の藍色の海に室蘭丸が碇泊していた。午前五時出航なので船客は日が暮れると乗船を始め、私は午後九時頃に及んで荷揚場から黒奴に案内されてデッキに昇っていった。そこから孟買の港に船遊びする富限者船の燈《あかり》が明滅するのを眺めながらサルーンから響いてくる音楽と歓談の声を聞いた。私をケビンに案内した部屋ボオイは室蘭丸が処女航海でそのために当夜は盛大な宴が開かれている事を告げて私の出席を求めるのであった。日本人のボオイが部屋を去ると、私はふと同室の寝台に乱雑に投げ出された女物の革手袋と粋な持物の下の花模様の部屋靴が私の目にとまるのであった。
私が夜会服に替えてサルーンに設けられた席に着くと、金モールの事務長の植民地通いの海員らしい頑丈な腕がさしのべられて関西|訛《なまり》のある社交的なバスが、ようこそ、Yさん。ミッセスが最前からお待兼《まちかね》です。と云って曙色になった頬に微笑を浮べて私を迎える。いまでは日本食の宴も半ば過ぎてテーブルを囲んだ人々の間を土人街の女が酒盃をみたしてまわっていた。外国人達は彼女達の日本|髷《まげ》を珍らしがって嬉しそうにはしゃいでいた。私は彼女達のCの字に曲った衿元の黒い皮膚から噴火した火山灰が、流浪する女の生活の斑点となっているのを見るのであった。痩せた小柄な船長が船人らしい雄大な抱負を正面の卓子《テーブル》から吹聴していた。そのとき食卓の日本料理の美味のうちに急に鳴物の入った三味線を土人街の坊主頭の幇間《ほうかん》が弾き出すと、香港あたりでよく歌われる鴨緑江節を女達が噛むようにうたいだした。すると一座が急に浮かれて酒盃がかるやかに夜目にも白い運河を越えて、日本流の歓待のなかで青い花が満開して、思いがけなくもアダの顔がそこにあらわれてくるのを認めるのであった。
4
孟買の花嫁である万国女のいる孟買市場の裏街では天幕の舞台で、緬甸《ビルマ》の女がバゴダ踊をおどっている。町の芸妓達は月光の下でスカリプタの恋愛小説を読みながら顔見世の順番を待っている。私は宴のなかばを抜けて夜の孟買の街を英国の煙管《きせる》から吐き出される煙で曇らすのだが、印度人の象使いが象の背に古代神の敷物を敷いて外人の子供を乗せて円のなかを大声で叫びながら引張りまわしているのを見ているうちに、アダのことを忘れてしまった。拳闘場では印度人の闘士が負ける度に歓声があがる。興行場ではカイゼル髭を生した国王が臨席して其の昔の首洗の井戸で印度の苦行僧がサロメのヨカナンを演じていた。ガンダラ彫刻した夜の女の手が闇から出て私をシセロの居酒屋に引張ると足とも手ともつかぬ黒い肉体を蛇のように私の首に巻きつけて、蛇酒を調合したソーマ酒の杯をかちあわして一気にあおってしまった。部屋々々の壁の伝説のニデイアの像のかけられた下を快楽のために奴隷にされたフィリッピン人の拳闘家が、床下を犬のように這いながらときどき兇暴なうなり声を出した。
アイルランド人の経営しているホテル・グランド・オリエンタルは夜が更けるにしたがって人力車と馬車が交錯して万国旗の前でとまると各国の夜の女がボーイの腕に抱かれて、昇降するたびにアイオニアの音曲を奏するエレベーターに吸われていった。
フォート区に馬車が出ると各国の若い男女が街路樹の下を腕をくんで逍遙《しょうよう》している。夜遊びした孟買女学校の生徒が茶色の肩掛で顔を包んで皮膚には香気ある花を飾って帰途を急いでいる。午後十一時半に閉《は》ねる活動写真館から五色のターバンを巻いた楽士達が通用門から出る時刻であった。カバレット・バビロンの白煉瓦の高層な建物から流れるワルツの曲が街角に直立した赤い帽子の印度巡査をモスモロスの道化役者風にしたててバビロンの入口の廻転ドアの前に金モールのいかめしい英国人の門衛が莞爾《かんじ》とした笑いをたたえている。ダン
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