沈黙してしまった。マダム・レムブルグの毛深い部屋でこの陳独秀の悲壮な報告が終って、彼は自己の生涯の最後を南支那海のビイクトリア島においたのであった。隣室の踊場のジャズ・バンドが気狂《きちがい》のように太鼓をたたいた。斑《まばら》なシュミーズをつけたレムブルグの女弟子が部屋に飛込むと陳子文がバルコニで自殺したことを告げた。
 音楽が急に止んだ。瞬間人々は恐ろしい沈黙に陥るのであった。踊場の男女は抱擁したまま床に釘づけにされてしまった。突然レムブルグが悲鳴をあげて廊下に飛出す、米良はバルコニに駈け上ると暈《う》れた空気に蒼白《あおざ》めた闘争に窶《やつ》れた同志の死体が沈むのを見た。彼の骸《むくろ》はすでに苛酷に滲《にじ》んだ苦悩は去ってセラフの哀悼歌が人々の心に悲しくこだました。広東湾の白堊《はくあ》の燈台に過去の燈は消えかけて、ハッピーバレーの嶮峻《けんしゅん》にかかった満月が年少の同志の死面を照りつけた。
 陳独秀は虹のように地面に這入った彼の腕から拳銃をとると、虚空に一発打ち放して花火のように彼方に舞下りる弾丸を見つめながら、――何故死なねばならないのだ! と、絶望的にさけぶのであった。
 レムブルグの黄色い涙が夜を濡らした。人々は死を嘔吐して踊場で狂った人間のようにお互の足を踏みつけた。夜会服の白い陸地には、死の暗号文が紅で詩のように書きつらねられた。死体に埋もれていたダリアが開いて萎《しぼ》んだ。
 失神した米良の腕を陳独秀はとると、彼等は酒棚のまえで物悲しい乾杯をした。陳独秀は自分こそ全てを失った人間であることを米良に告げ、ブルジョワが三角の頭をしたプロレタリアの赤児を投げ殺す現実を眼のあたりに見て自分、理想と未来をもたぬ自分は、軍国主義の硝子張りの箱のなかで、事件の変転を眺めながら生けるミイラになるより手段のないこと。それらが陳子文の柔弱な死への哀悼歌となって米良を悲しませた。
 陳独秀は阿片を加えた強烈な混合酒の杯を米良の杯に噛みあわすと云った。
 ――恐らくは明日の広東入りさえ時態は不可能にするのだ。
 ――支那人の思想が偶然のたわものである証拠!
 ――米良、冷かすのはよしてくれ! 今夜の酒杯が我々の間の永別になるだろう。
 ――それというのは? 米良の堪えていた涙が溢れ落ちる。
 陳独秀は空虚と心の暗黒と、虚無を感じて過去の傷ついた事蹟を振りかえりながら、
 ――一先ず俺はこれより汕頭《スウトウ》に行き、其後ペトロフの軍艦でバルチック海からロシア入りをする決心なのだ。我々の離れることのできぬ別離も、数年後再び我々の陽光の下で俺達は嬉しい邂逅《かいこう》ができることを俺は信ずるのだ!
 彼は空虚な心の劇場に未来の演出を約束すると、苦しみにたえかねて米良を抱きしめると力の抜けた足音を廊下に残して去った。
 海峡から飛んできた伝書鳩が香港政庁の上空で旋回した。九竜に向けて二重デッキの白いランチが鴎《かもめ》のようにランプの尾を海水に引いて走りだした。ローマン・カソリック・カセドラルの屋上に伊太利《イタリー》の尼僧があらわれると御祈祷《ごきとう》を始めた。またしても対岸に反乱が勃発《ぼっぱつ》したらしい。米良は尻のところに縫模様のある緑色の部屋で踊子のベッドに寝ころんで天井に口汚く附着したシャンパンの斑点をみつめながら、病み果てた病人のように透徹《とうてつ》した頭脳であわただしく過ぎて行った赤い歴史をめくるのであった。踊る足音が次第に彼方に去って夜が重なった。彼は陳子文の葬《とむらい》の駒の音と、夜の外気に鳴る風琴の不気味を褥《しとね》のなかで聞いた。突然、うとうととしていた米良をマダム・レムブルグがたたき起して一通の電報を手渡すと、
 ――広東に夜中反乱が起ったのです。形勢は共産軍に絶望です。広東香港間の電信が切断されてその後の消息は不明なのですが、恐らく明日は外国人は南方に於ける商業上の前途を楽観して、交易所では支那へ夥《おびただ》しい投資が行われるでしょう。
 ――陳独秀は?
 ――あの人の苦悩は大きいのです。もう何人《なんびと》の力も役には立たないのです。あの人は阿片を多量に喫して辛うじて睡眠をとりました。反乱が妾達の娯楽であった時代が過ぎて、いまでは騒ぎがある毎に妾達の悲しみは増すばかしなのです。
 ――レムブルグ! 同志は死んでしまうのだ。
 すると彼女は顔に青い陰影を無数にこしらえて、
 ――妾《わたし》はそれについて悲しんだことはないのです。妾の悲しみは人間同士の間の苦しみなのです。いつか支那の軍閥の退屈な野戦が西大后の運河に押し流されてしまう日のあることを妾は知るのです。
 飛行機のプロペラの音が空中で急停止した。ローマン・カソリックの円屋根《ドーム》の鐘が午前三時を打った。米良は電報を開いて読ん
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