だ。シイ・ファン・ユウが早朝天津から香港に向けて出発する知らせであった。
 米良が突然、駄々をこねて云うのである。
 ――レムブルグ、鍵穴をうめてください。そこから誰でもこれから起ることを妨害しないために!
 するとマダム・レムブルグは素早く太い胴体を飜《ひるが》えして、この近代の機能の発明家は青い化粧的で、牛の舌みたいな腕で扉《ドア》を閉めると、再び細目に開けて、
 ――それどころですか。明日の運命の墓誌銘をつくるために妾は女だてらに気が狂うほど急がしいのです。
 ――レムブルグ、貴女の恋心。
 ――米良、貴方は妾を世界の花から花に住みかえる毒蛾のように思っては不可《いけ》ないのです。昔から女というものは英雄と革命を愛することに変りはないのです。それに近代女の賭博心が妾の明日の事業欲をそそるのです。
 ――貴女の移気《うつりぎ》な恋愛のオアシス、近代女の株式、同盟破棄!
 すると次の刻限を感じて彼女が厳粛な顔をするのであった。米良は陳子文の死によって北京の秘密結社において自分と彼とシイ・ファン・ユウとの恋愛の共同事業も、陳子文が過去の東洋の虚無主義の祭壇に生還したのを感じて、陳子文の古い伝統の礼譲に敬礼するのであった。彼は何故とも知らぬ哀愁を感じてうなだれる。
 レムブルグの愛情が彼を慰めるように、
 ――妾の最愛の子供! 妾達がこれからの悪い運命を待つために妾は貴方のためのよい信心家になるのです。
「お寝《やす》みなさい。」と云うと、彼女の靴音が暁前の静寂を遠のいて行った。米良は緑の窓硝子を透いて地平線の彼方、数理的な朝の太陽に銅鑼湾の火薬庫の壁が傾いて見えるなかを、露国飛行家の操縦するらしい単葉機が空中に水のような光を発して広東の方角に引返して行くのを見た。
 米良は再び寝床の中にもぐると、今一度シイ・ファン・ユウの電報を開いて読むのであった。この一枚の白い花が彼の唯一の陳子文の死骸へのたむけであった。西欧人に比べて東洋人は生命を苦もなく棄てるのであるが、陳子文の死には過去から現代の過程のなかに生きる近代的な苦悶の潜んでいたことを米良は知るのである。彼の魂の過去への物持ちが奔逸《ほんいつ》な現実的な近代主義に打克つことができなかった。理想主義が伝統に敗れたとき彼の理智が無記銘な現在から彼の生命を奪ってしまった。人間が感情の困難に遭遇するときつねに頭角をあらわすものは思考力をなくした真の自我なのであった。自我が現実に当面したとき自らを失って生命の価値をなくするのは当然なことであった。
 米良は廊下に這い出した。躍場では朝の太陽をうけて酔泥《よいど》れた形骸が、踊子の波の裂れ目で正体もなく寝ていた。別室の籐の寝椅子には陳独秀が彫像のように一夜を過した姿があった。その側の安楽椅子によりかかって寝ているイサックの黒い顔に未来の文明が浮き出ていた。米良はレムブルグの寝室の扉をノックした。扉《ドア》が開くと青い衣裳の彼女の腕が彼の首に巻いて、米良は鋼鉄のようなレムブルグの乳房を感じた。

 眼が覚めるとレムブルグの抜け殻の跡は既に冷たくなっていた。米良は枕元に置かれた二通の電報を開いた。一通は上海の同士から、一通はシイ・ファン・ユウから香港行を中止した電文であった。米良は知るのであった。この電文が彼女が黄海から彼宛に発信する最期の恋の電流であろうことを。
 彼女はどちらかと云うと咄嗟《とっさ》の思い付きを愛する女で米良は自分の桃色の革命家の恋心について悲しまなかった。××府の女、六朝の血を衝《う》けた彼女達の北方軍閥に対する憎悪は、南方の組織に関わらずその力によって北方軍閥の倒壊をまって自己を擁力しようとする陰謀、シイ・ファン・ユウも目的をそこにもっていた。ただ彼女の支那女特有の秘密好きな冷理な性質が秘密結社と革命の企業を愛し、東洋女らしい敬虔《けいけん》さがボルシェヴィキの堅固な道徳に陶酔した。シイ・ファン・ユウが米良に身を委せるときは、彼女は自分の演じているお芝居に有頂天になっているときであった。お互がお互の秘密を公開するのはそれが必要にかられているからで、お互が精神にデジケートする古代ではなかった。
 部屋にかかった時計の色模様の絵画に午前八時の赤い舌が飛出した。レムブルグ美容院の整頓された朝がやってきた。踊場では彼女の女弟子達が運動服をつけて体操を始めていた。米良は香港デーリ・プレスの朝刊をひらいた。そこには共産党の陰謀と云う見出しで、昨夜の夜戦に於て共産軍隊は広東軍官学校を襲い、激戦後、広九鉄道を破壊して汕頭《スワトウ》方面に向けて敗走したが、再び共産主義の煽動《せんどう》によって市内に農民工人を一団にした暴動が勃発して吉祥路《きっしょうろ》の司令部を襲い、公安局その他政府諸官庁に向ったが、軍隊出動して防遏《ぼうあつ》、其
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