地図に出てくる男女
吉行エイスケ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)香港《ホンコン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)先人|李石曹《リーシーツワン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
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 ゴシック式、絵画的な風景を背景にして香港《ホンコン》の海の花園を、コリシャン・ヨット・クラブの白鷺《しらさぎ》のような競走艇が走る。一九二七年の寒冷なビクトリア港の静かな波間にオランダの汽船が碇泊《ていはく》すると、南方政府の逮捕命令をうけて上海《シャンハイ》を逃れた陳独秀《ちんどくしゅう》が船着場に衰えた姿をあらわした。
 米良《メラ》は空中滑走する、戦い疲れた陳独秀とビクトリア・カップよりセント・ジョウジ・プレースに至る山頂火車のなかで彼等は力なく握手して、空中の鏡の上にモーニング姿の印度《インド》人のイサックを発見するのであった。イサックもまた一先ず上海の東洋での黄色い手を棄てて孟買《ボンベイ》に帰る途中であった。英国の専制のなかに宙を乗った彼等がセント・ジョウジ・プレスから汕頭《スワトウ》人の車夫に曳《ひ》かれて、銅羅《どうら》湾の火薬庫の挙壁を眺めながら石塘嘴《せきとうほう》の万国館に入るのであった。
 ここでターバンを巻いた印度人、皮膚の色褪《いろあ》せたペルシヤ人、半黒焼のマレー人、亡国的なポルトガル人などの群に交って北京を出発してから半ヶ月後、支那の現代のシステムに出現した支那女との恋を棄てて北京以来の友である陳子文と米良は病み疲れていた。武漢の共産軍が敗れ、上海の市街戦で同志は一掃され、ボロジンは九江より南昌に[#「南昌に」は底本では「南晶に」]隠れ、それ以前ボロジン夫人は密書とともに捕えられ北京の軍法会議に廻されたのであった。先人|李石曹《リーシーツワン》は何故か同志の実戦に参加しないで上海より広東《カントン》に身を避けたのであった。それにも拘《かかわ》らずいまでは南京《ナンキン》と広東の提携説さえつたわるに至った。工人を指導した陳独秀が、いまでは南京総司令の策略によって彼の首が無産者の弗箱《ドルばこ》に変わるのであった。
 ペルチスタンの印度兵の眼を避けて支那の裏面に磔《はり》つけにされた同志が、石塘嘴の不夜城に暗黒な心を抱いて一夜を明すのであった。

 夜が更けると、米良は陳子文とイサックを伴って電車路からクインス・スタチウの花園の附近にあるマダム・レムブルクの夜の家を訪れる。
 もとロスアンゼルスにいた奔逸なレムブルグは若い急進派の恋人を紐育《ニューヨーク》のユニオン・スクエヤーで反動団体のために銃殺されてから港々に赤い花を生長さしたが、其後マルセーユのカバレット・トア・ズンドルの踊子附の美容師となり、後孟買から香港にやってきてレムブルグ美容院を開いて、豚毛と女の髪の毛を文咸《ぶんかん》街の取引所に提出して数年、彼女は近代の革命の顔と共産主義を奉ずる労働者の赤い顔を見知ってしまった。
 彼等はマダム・レムブルグの家でアングロ・サクソンの英諾威《えいノルウェー》人、ケント族の仏伊人、スラブの露墺《ろおう》人、アイオニアンの血族|希臘《ギリシア》人の商人、オットマン帝国の土耳古《トルコ》人等と夜食を共にするのであった。彼女は彼等に貴族の末路を象徴するブカレスト生れの軽騎兵の肖像と、人間の過去のミイラと、女の踵《かかと》を提供した。レムブルグ美容院で女の肉体を占領した同志は同時に自己の領地を外国に棄てたのであった。
 フィリッピン人のジャズ・バンドが大広間で演奏を始めると、酒杯の味覚が米良を興奮さし、踊子の赤いエナメルの靴尖《くつさき》に打ちつづく自己の災難を忘れて、断髪した朝鮮女と、口唇《くちびる》を馬のように開いて笑う日本女、猫背の支那女、眼脂《めやに》の出たロシア女、シミーダンスの得意なマレー女、計算を爪のなかにかくした独逸《ドイツ》女の腕から腕を地球を周遊するように廻りながら、マダム・レムブルグの華美な安衣裳から透いて見える胴体に潜む夜の唱歌隊を懐しい逃亡者の国土にするのであった。
 彼等の陰鬱な思想の仮装舞踊、光線が性的魅力にかくれて、イサックはロシア女の巨大な腰のまわりに赤い旗を立て、陳子文は東洋人らしいどん底を日本女に見出すのであった。レムブルグを抱えた米良が舞踊場に機械が造り出した人間の造花の美と、同志の終りに近づいた純潔を撒《ま》き散らした。檻《おり》から出たミネルヴァの昼と夜とを違えた生きものの影が暗殺者の役目をした。陳独秀が稲妻のように舞踊靴の部屋に這入ってくると、彼は米良にボロジン一味が再び南昌から漢口
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