ものは思考力をなくした真の自我なのであった。自我が現実に当面したとき自らを失って生命の価値をなくするのは当然なことであった。
 米良は廊下に這い出した。躍場では朝の太陽をうけて酔泥《よいど》れた形骸が、踊子の波の裂れ目で正体もなく寝ていた。別室の籐の寝椅子には陳独秀が彫像のように一夜を過した姿があった。その側の安楽椅子によりかかって寝ているイサックの黒い顔に未来の文明が浮き出ていた。米良はレムブルグの寝室の扉をノックした。扉《ドア》が開くと青い衣裳の彼女の腕が彼の首に巻いて、米良は鋼鉄のようなレムブルグの乳房を感じた。

 眼が覚めるとレムブルグの抜け殻の跡は既に冷たくなっていた。米良は枕元に置かれた二通の電報を開いた。一通は上海の同士から、一通はシイ・ファン・ユウから香港行を中止した電文であった。米良は知るのであった。この電文が彼女が黄海から彼宛に発信する最期の恋の電流であろうことを。
 彼女はどちらかと云うと咄嗟《とっさ》の思い付きを愛する女で米良は自分の桃色の革命家の恋心について悲しまなかった。××府の女、六朝の血を衝《う》けた彼女達の北方軍閥に対する憎悪は、南方の組織に関わらずその力によって北方軍閥の倒壊をまって自己を擁力しようとする陰謀、シイ・ファン・ユウも目的をそこにもっていた。ただ彼女の支那女特有の秘密好きな冷理な性質が秘密結社と革命の企業を愛し、東洋女らしい敬虔《けいけん》さがボルシェヴィキの堅固な道徳に陶酔した。シイ・ファン・ユウが米良に身を委せるときは、彼女は自分の演じているお芝居に有頂天になっているときであった。お互がお互の秘密を公開するのはそれが必要にかられているからで、お互が精神にデジケートする古代ではなかった。
 部屋にかかった時計の色模様の絵画に午前八時の赤い舌が飛出した。レムブルグ美容院の整頓された朝がやってきた。踊場では彼女の女弟子達が運動服をつけて体操を始めていた。米良は香港デーリ・プレスの朝刊をひらいた。そこには共産党の陰謀と云う見出しで、昨夜の夜戦に於て共産軍隊は広東軍官学校を襲い、激戦後、広九鉄道を破壊して汕頭《スワトウ》方面に向けて敗走したが、再び共産主義の煽動《せんどう》によって市内に農民工人を一団にした暴動が勃発して吉祥路《きっしょうろ》の司令部を襲い、公安局その他政府諸官庁に向ったが、軍隊出動して防遏《ぼうあつ》、其
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